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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第19主日  ルカ12:32~48  2022年8月7日

 今日の日曜日のミサにおける朗読箇所には、一貫したテーマが感じられます。それは「神を待ち望むこと」です。第1朗読では知恵の書が朗読され、「順境も逆境も心を合わせて受け止める」ことが神の民の生き方であることが語られ、あの過ぎ越しの出来事を待ち望んだ先祖たちと同じく、その子孫であるイスラエルの人々にとっても「神を待ち望むこと」が信仰における大切なキーワードであると宣言されています。第2朗読でも「あなたの生まれた国を離れなさい」と命じられたアブラハムが「行く先も知らずに出発したこと」が語られています。天のふるさとを目指して旅することはアブラハム以来、すべての信仰者の原点となりました。

 信仰においては、「生まれた国」すなわちこの地上の社会的価値観から「天のふるさと」すなわち神様の価値観への方向転換が求められるのです。私たちは幸せで安定した生活をしているとそれがすべてと思い込み勝ちです。でも、この地上の生活では安定も幸せもつかの間のものに過ぎないことをいつか知ることになります。私たちは、生まれ、育ち、自分の望む生き方で歩んでいるように思いますが、これらのことはすべて「誰かによって支えられているからこそ可能なこと」なのです。それらのものは、病気になったり、仕事が不調になったり、家族や仲間とうまく行かなくなれば、いともたやすく失われてしまうものなのです。イエス様のたとえ話は、「今」「目に見えているもの」は決して永遠ではないこと、もし恵まれている状態ならば、その恵まれていることに感謝の気持ちを忘れてはならず、またその恵みを自分だけに用いることは誤りであること、反対に、もし恵まれた状態でなくても、絶望したり人々や神様を恨んだりすることはなく、その試練にあってこそ信仰が鍛えられるものであることを述べています。

 「順境にあっても逆境にあっても」という第1朗読のことばは、現在では「結婚式の誓いのことば」の一節に使われるほど有名になりましたが、本来は信仰者の姿勢・覚悟・戒めを述べる聖書のことばなのです。「順境」、すなわち健康にも恵まれ、仕事も順調、家族や友人とも仲がよい順風万帆な時だけ信仰するというのでは、本来の信仰ではありません。全くの逆風、嵐、試練の時にあっても信頼・祈り・努力・希望を失わない姿勢・生き方が、信仰者には求められていることをイエス様は強調されています。私たちが生きるために必要なものがいろいろあります。食べるもの、着るもの、住むところ、お金、仕事も……。しかし、それだけではありません。イエス様は言われます。「あなたがたの富のあるところにあなたがたの心もある」と。私たちの心が何に向けられているか? 誰に向けられているか? 今、私たちの心に関心が向いているものが本当に私たちに真の幸せをもたらすものか、もう一度、見つめ直してみなければなりません。

【祈り・わかちあいのヒント】
*多くを任された者は、多く要求されるのです……。

年間第18主日  ルカ12:13~21  2022年7月31日

 今日のテーマは地上の富に対する根本的な心構えです。第1朗読の伝道の書(コヘレトの言葉)では、富は人を幸せにする保障にはならず、少なすぎても多すぎてもともに人を苦しめるものであることが説かれています。第2朗読では、使徒パウロは「上にあるものを求めよ」と語り、「貪欲は偶像崇拝にほかならない」とまで喝破します。さて、福音朗読ではある人の遺産相続に対する訴えがきっかけとなって「この世の富」についてイエス様のたとえ話が語られることになります。

 当時の律法によれば、遺産相続の際に長兄に3分の2、その他の兄弟に残りの3分の1が分割されたようです(申命記21:17)。ところが長兄から、あるいは他の兄弟からこの人は何ももらえなかったのかもしれません。律法学者たちはこのような相談にも応じる、いわば弁護士のような役割をしていましたが、イエス様はめずらしいほどはっきりとこの申し出を拒絶しています。イエス様は、富は物質にすぎないのに、何故人間は富に振り回され、人間らしさを失い、人を殺したり争ったりするもとになるものに翻弄されるのかと嘆いておられます。富はあくまでこの世に生きている間だけ必要なものであり、また多くを集めたからといってそれがその人に幸せな人生を保障するものではないことを指摘します。つまり、手段に過ぎないものにまどわされ目的とすべきことまで見失ってしまう人間の陥りやすい傾向、欠陥に注意するように促しています。

 日本の社会では、年金だけでは足りず2000万円を自分で用意しなければ、ということが話題になりました。確かに老後にお金の苦労はしたくありませんし、これまで国のいうことを信じてちゃんと支払ってきたのに年金だけでは老後の生活が保障されないとなれば大きな問題です。しかし、年金や保険制度が完全に整備されたからといって人間がそれだけで幸せに生きられるものではありません。その人の人生が幸せかどうかは「物を持つこと」ではなく、「その人が人として受け入れられること」、また「その人が自分の人生に目標を持ち、生きがいのある生き方をしていること」にかかっているのです。中国のことわざに曰く、「錦を着て憂うる者あり、水を飲んで笑う者あり」と。イエス様は言われます、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。私が今、持っているもの、この生命も、性格も才能も時間も、そしてお金も、「私のものだ」と独占してしまうべきものではなく、「神のため、神が愛しておられる人々のため」にいかに用いるかが神様によって問われているのです。「あまっているからどうぞ」ではなく、「これは自分のために用意したものですが、今のあなたには私以上に必要なものですからどうぞ」と言える人、行なえる人こそ幸いな人とイエス様は言いたいのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私が今持っているもので天国まで持って行けるものは何でしょうか?

年間第17主日  ルカ11:1~13  2022年7月24日

 ルカ福音書は祈りの福音書というあだ名がつけられるほど、「祈り」を強調しています。まず、ルカ福音書の冒頭は、洗礼者ヨハネの父となるザカリアが祭司の務めを果たすために神殿の至聖所に入るところから始まります(1:8~23)。またイエス様の洗礼の場面でも、洗礼を受けた後、祈りを捧げているイエス様の頭上に天が開き、聖霊が鳩のような姿であらわれ、「これは私の愛する子」という声が響きます(3:21~22)。12使徒を選ぶ前にも祈りを捧げるイエス様の姿を記しているのはルカの特徴です(6:12~16)。ご変容の記述にも「祈っておられるとその姿が変わり」と記すのはルカだけです(9:28~36)。そして、今日の福音、すなわちイエス様が主の祈りを教えてくださった時も、イエス様ご自身の祈りと私たちに教えてくださった祈りとの絆をルカは強調していると思います。

 この当時、ラビとその弟子たちのグループには、そのグループの特徴を表わすグループ独自の祈りがあったようです。「ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにもイエス様のグループであるしるしとなる祈りを教えて下さい」というのが弟子たちの望みであったのです。ルカはマタイが記した「主の祈り」よりも簡略な形に、マタイ福音書は「7つの祈願」ですが、ルカは「5つの祈願」にまとめています。聖書学者によれば長さの点ではルカが、用語の点ではマタイの方が、イエス様がお教えになったものに近いと言われています。そして、この主の祈りは、マタイもルカも「主の受難」と深いかかわりがある祈りであるという点で一致しています。「み旨が行なわれますように」とはゲッセマネで主の口から繰り返し聞かれる言葉となります。「誘惑にあわせないで下さい」とは「もし、あなたが神の子ならその十字架から降りよ」という敵対者の罵りの言葉を連想させるものがあります。「私たちの罪を赦してください」とは十字架上で回心したあの盗賊の言葉を思い起こさせます。

 「御国が来ますように」という祈りの言葉は不思議です。「天国に入れますように」ではなく、「み国が来ますように」とはどんな意味なのでしょう? この地上において神の御心が実現することこそ、イエス様がこの世に来られた理由なのです。神様を「父」と呼ぶことにより、人間が作り出したすべての壁、分け隔て、文化、人種、国籍、言語などもすべて超越する原動力が与えられるのです。この地上を、天と同じく神様の御心のすべてが実現する世界に変えてしまおうとするイエス様は、そのために十字架さえもいといません。人間がしでかすどんな罪や悪よりも神様の愛は強く、その罪や悪をさえも素晴らしい赦しと恵みへと変えてしまうことが出来るお方こそ神であることを示すのが、あの十字架の出来事なのです。私たちがイエス様の弟子であることを示す「主の祈り」を、心をこめて今日も祈りましょう。

【祈り・わかちあいのヒント】
*主の祈りはイエス様と一緒に唱えている祈りであることをお忘れなく!

年間第16主日  ルカ10:38~42  2022年7月17日

 ルカ福音書には、イエス様らしい細やかな心づかいが表れているエピソードが記されています。今日の福音書もその一つです。小さなエピソードですが、とても大切なメッセージがあると思います。イエス様は弟子たちを連れてユダヤやガリラヤを巡り歩いておられます。当時、ラビと呼ばれる人が町や村を訪れると、その町や村の有力者たちはこぞってラビを招待し、もてなし、またラビのお話をその町、その村の人々にも聞かせようと家を開放していました。

 さて、イエス様はマルタ・マリア・ラザロの住むベタニアという村にやってきました。ベタニアはエルサレムから5kmほどしか離れていない村ですから、エルサレムを訪れるたびにイエス様たちはマルタたちのいるこの村に立ち寄っていたのでしょう。いつものようにマルタが出迎えます。「さあ、私の家においで下さい」。マルタは家に着くなり、しもべたちに次々に命じます。「あなたは冷たい水を汲んできて、先生やお弟子さんたちに差し上げて下さい。手や顔を洗ってさっぱりしたら、涼しい木陰に案内して」「あなたはすぐにご馳走をたくさん用意して下さい。今夜は大勢の人がきますから」。「あなたはこの村中の人々に伝えて下さい。『今夜、私の家にナザレのイエス様がお泊りです。お話を聞きたい人は遠慮なくおいで下さい』と皆さんを招待するのですよ」とマルタは思いつくことをテキパキとこなします。

 さて、夜になりました。村の人々も集まってきます。マルタは、ここにいるすべての人に最高のもてなしを、このひと時を十分にくつろいでもらおう、とあれこれ気配りします。ふと気がつくと妹のマリアがイエス様の足元にじっとすわってお話を聞いています。イエス様のお話が一段落した時を見計らって、「先生、妹に手伝うようにおっしゃっていただけませんか?」と話しかけました。イエス様はマルタを見つめて「マルタ、マルタ」と2回も名前を呼んでいます。「マルタ、あなたはいつものように親切だ。私や弟子たちだけでなく、ここにいるすべての人をもてなそうと心配りしてくれている。それはうれしいこと、ありがたいことだ。しかし考えてごらん。私がここに来たのは休みたいからではなく一人でも多くの人に福音を聞いてもらいたいと望んだからだ。マリアはだれよりも一生懸命、聞いてくれている。聞くことは受身で何もしていないように見えるかもしれないが、私のことを大切に思ってくれるからこそ、大切な人が大切なことを話していると思い、自分の気になることややりたいこともやめて、私のことばを聞くことにすべてを捧げてくれている」。いつの間にか私たちも、自分のやりたいことや自分の気がすむためのことを人に押し付けてしまいがちです。でも本当に大切なのは、私が考える「最高」ではなく、神様が考えておられる「最高」が何であるかなのでは?

【祈り・わかちあいのヒント】
*神様の考える「最高、最上のこと」と私の考える「最高、最上のこと」の違いは?

年間第15主日  ルカ10:25~37  2022年7月10日

 ルカ福音書には、芸術家の福音書という別名があります。ルカ福音書の描くキリストの出来事、また様々な教えは、絵画や彫刻、音楽、演劇にたくさんのヒントを与えてきたからです。さて、ルカ福音書は、「たとえ話」の福音書とも言えると思います。イエス様のたとえ話といえばかならず思い出されるものの多くが、ルカ福音書に記されています。今日はその代表例である「よきサマリア人のたとえ」です。

 このたとえ話の導入は、ある律法の専門家の質問です。「永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいのでしょうか?」イエス様はまずそれに直接答えようとはせず、「律法には何と書いてあるか? あなたはそれをどう読んでいるか?」とお尋ねになります。すると、その人は「神と隣人を愛すること」と答えます。イエス様はそれを正しい答えと認め、それを行なうように諭されます。すなわちイエス様の答えは、知っていることでとどまらず、行なうこと、どう理解し、実際の生き方にどう結びつけているかが大切であると強調しておられます。このことはキリスト者にとって大切なことを意味しています。信仰を知識と同一視しがちな人々が多いからです。仏教でも「慈悲」を説き、儒教でも「仁」を説きます。教えの内容としては、つまり知識のレベルではキリストの説く「愛」と大きな差はありません。ただキリスト教の特徴は、人生を達観し、悟りを開くためや政(まつりごと)を行なう心構えを説くのではなく、私たち平凡な一人ひとりの人間に「行なうこと」を促がすところにあるのです。

 このたとえ話は「自分がどう救われるか?」について尋ねてきた人に、「あなたは誰の救い手となるか?」と切り返してきます。私たちの信仰は「自分の救いのため」という発想から見直すことを要求されます。自分のことを忘れて「誰かのために一生懸命」な時こそ、もっとも自分自身が生き生きしている時なのです。反対に、自分の健康、自分の運不運、自分の思いや都合にとらわれている時は「いつもどこかに不安やいきづまり、閉塞感を感じている」のではないでしょうか? それゆえに隣人が必要なのです。隣人は私をわずらわせるめんどうな人ではなく、私がもっといきいきと生きるために必要なチャンスを与えてくれている人たちなのです。

 今の時代は権利を主張する人たちが大勢います。しかし、キリストは「まず、神の国とその義を求めよ、そうすればすべての必要なことはおのずから与えられる」と教えておられます。自分のことばかりしか、目に入らない、関心がないという「自分中毒」ということに陥ってしまっている人間が多くなってはいませんでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは誰の友人、隣人となっていますか?