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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第3主日  マタイ4:12~23  2020年1月26日

 今日の福音にはイエス様のガリラヤにおける宣教の開始が語られています。何故、イエス様の福音宣教はガリラヤ地方において始められる必要があったのでしょうか? 当時のユダヤ人にとって宗教的な中心地は神殿のあるエルサレム、ユダヤ地方であったのに対して、ガリラヤは異邦人の地といささか蔑まれていました。確かにガリラヤ地方には異邦人も多く住んでいました。しかし、それゆえにイエス様の福音は神の民と異邦人がともに住むガリラヤこそ、ふさわしかったのです。イエス様は、約束されたメシア、しかしアブラハムの子孫であるユダヤ人だけの救いのためではなく、万民の救い主であることをこうして明らかにされたのです。

 イエス様が、ガリラヤでの宣教の開始と同時に弟子たちを呼び集められたことが、今日の福音で語られています。これにはもう一つの大切な意味があると思います。すなわち、私たちの信仰は常に共同体性を帯びているということです。「私と神様」の関係を結ぶことが信仰と考えられがちですが、「私たちと神様」の関係を深めることこそ、イエス様の信仰共同体の特色となるのです。イエス様は神様を父と呼ぶように教えられました。私たちの信仰は最初から共同体との関わりなしには生まれないのです。ちょうど私たちの人間としての誕生が父と母という共同体から生まれたように。

 私たちの信仰の基本は、(1)神様と愛と命の絆で結ばれるために今日も祈ること。(2)キリストを師として、信仰と与えられた人生をよりよく生きるために学び続けること。(3)私を支えてくれている仲間に感謝し、私も仲間のために何をなすべきかを問い続けること、そして行うこと。祈りなしの信仰は直ちに暗闇に沈んでしまいます。学びなしの信仰は自分の作り出す誤った固定観念によって生きた信仰を失わせます。奉仕のない信仰は不平と不満だけをやたらに人にぶつけるだけの愚か者にしてしまいます。ペトロたちはガリラヤ湖の漁師でした。陸地のように安定した場所、自分の才覚で生活の糧を稼ぎ出すというよりは、自然という、人間の力ではどうすることも出来ないものを相手にする、不安定で先の見えない職業に従事していました。だからこそ、決断と行動が早く、自分独りの力よりも仲間とともに力をあわせ、また神様に信頼をもつことなしには日々の生活が成り立たない人々でした。「すぐに網を捨て」、「すぐに舟を捨て」イエス様についていった4人はやがて弟子たちの中でも中心メンバーとなってゆきます。「また今度にします。いつかはそうなりたいと思います」と言い訳しがちな私たちですが、今日、新たな気持ちでもう一度始めたいと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「すぐに」と「ともに」は私たちの信仰の特徴です。あなたは「今」、「誰とともに」この信仰の道を歩んでいますか?

年間第2主日  ヨハネ1:29~34  2020年1月19日

 先週の日曜日に祝った主の洗礼から年間という季節が始まります。それに続く年間第2主日にはヨハネ福音書の記事が朗読されます。洗礼者ヨハネが述べた「神の小羊」という表現は、今日もミサの中で私たちが用いているイエス様の称号です。「神の小羊」ほど、イエス様の使命を端的に表している表現はありません。「小羊」と言えば、イスラエルの人々にとっては「過越しの食事」を連想させるものでした。あのエジプトからの脱出の時、モーゼはイスラエルの人々に命じました。「傷のない一歳の小羊をほふりなさい。その血を各家の入口の鴨居(横木)と柱(縦木)に塗りなさい。その血を見て、主の使いはイスラエルの家と知るであろう。そして、主の下す災いは過ぎ越すであろう」。過越しの食事はイスラエルの人々にとって、神の救いのわざにあずかるしるしとなりました。彼らは年に1度の過越祭の食事にエルサレムであずかることにより、自分たちが神の民であることを確認しあったのです。

 このような宗教的な背景がある中で、洗礼者ヨハネがイエス様を神の小羊と言った時、2人の弟子(ヨハネとアンドレア)は、「先生が『神の小羊』と言われたこの人にはきっと何かがある!」と思い、その後をついて行ったのです(ヨハネ1:35~42)。洗礼者ヨハネは「神の小羊」という表現をもって、イエス様が十字架(横木と縦木の組み合わされた形)の上で、自らの血を流し、自らをいけにえとして捧げ、それによって世の罪を贖い、世を救われるお方であることを最初から宣言しているのです。だから、この方こそ、「神の子」であると証しするのです。「神の小羊」が今日もミサの中で繰り返し使われるのには、それだけ大きな意味があるのです。

 私たちはイエス様をどのようなお方であると表現していますか?
「私にとってイエス様とは、○○○○○である」という自分らしい信仰表現を持つことのできる人は幸いだと思います。イエス様ご自身もいろいろな表現でご自分のことを言い表しておられます。「私は天から下ったパンである」「私は世の光、道、真理、命である」「私はぶどうの木」「私は一粒の麦」などなど。これらの意味を深く受けとめ、味わい、私たちの心の中にいつもイエス様の姿があらわれているように生きてゆきたいと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはイエス様をどのようなお方であると表現できますか?
*あなたにとってイエス様を語る時のキーワードは何ですか?

主の洗礼  マタイ3:13~17  2020年1月12日

 私たちの信仰生活の出発点は洗礼です。もちろん洗礼の以前にも神様を信じ、祈りを捧げ、キリストの福音を受け入れてはいますが、洗礼は自分一人の信仰ではなく、キリストの共同体としての信仰に入るという意味では、正式、公式、決定的、そして超自然的な恵みなのです。

 イエス様も公の宣教生活のはじめを洗礼に結び付けています。ヨルダン川の洗礼者ヨハネのところにやって来られた時、洗礼者ヨハネは、驚きました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と。洗礼者ヨハネは「私の後から来る方は偉大な方で、私はその方の履物のひもをとく値打ちもない」と公言していたくらいですから。しかし、イエス様は一言、「こうすることが私たちにはふさわしいことです」とお答えになりました。すると、さすがに洗礼者ヨハネです。イエス様の言われる意味をたちどころに悟りました。

  1. イエス様は神のみ子です。その方が人間の仲間となるために人間の姿でこの世に来られたのは、徹底的に、完全に人間、人の子として生きることを通して、神の子となる道を人間に示すためでした。
  2. イエス様が水の洗礼を受けられることにより、ただの清めや洗い以上の意味が洗礼に加わりました。すなわち、イエス様の受けるべき洗礼は、十字架の苦難・死そして復活を意味していました(マルコ10:38)。こうして、イエス様が水の洗礼に新約時代の意味を加えて下さったのです。
  3. 水は聖書の中で様々な意味に用いられています。ある時は生命のシンボルとして、そしてある時は、清め、滅び、死のシンボルとして。イエス様は、「私は生ける水を与える」(ヨハネ4:10)と言われています。「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語っておられます。水はイエス様の与える聖霊のシンボルとなります。
  4. やがて、イエス様は十字架上において、その開かれたわき腹から「血と水」を流されます(ヨハネ19:34~35)。その瞬間に弟子のヨハネは新しいアダムであるキリストのわき腹から、新約のエヴァ、キリストの伴侶であり花嫁である教会が誕生したことを悟るのです。洗礼者ヨハネが「水の洗礼」の意味を瞬時に十字架の死と復活につながるものと理解したように、弟子のヨハネもキリストの死が教会を誕生させるための道であったことを悟るのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*洗礼は古い自分に死に、新たに生まれることが求められています。
 あなたは何を退け、何を受け入れて、今日を歩もうとしていますか?

主の公現  マタイ2:1~12  2020年1月5日

 2020年の最初の日曜日は「主の公現」の祭日です。東方教会では今でも、「主の降誕」以上に全人類の救い主が全世界に示された祭日として、荘厳に盛大に祝われています。主イエス・キリストがお生まれになった夜、最初に救い主にお会いする大きな恵みを戴いたのは、ベトレヘムの野原にいた羊飼いたちでした。彼らはイスラエルを代表する人々となります。王や貴族、学者や身分の高い人たち、金持ちではなく、イエス様と同じく、家ではなく荒れ野に暮らしている人々、貧しい暮らしをしているこの羊飼いたちが一番目にイスラエルの救い主となるお方と出会うことが神様らしいなさり方です。この幼子はやがてイスラエルを導く牧者となる方です。マタイ福音書はミカ預言書の一節を引用して語ります。「ユダの地、ベトレヘムよ、お前はユダの指導者の中で、決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現われ、私の民、イスラエルの牧者となるからである」(ミカ5:2)

 この預言のことばは、今度は東方からやって来た3人の博士を幼子イエス様に引き合わせる手がかりとなります。星に導かれ、聖書のことばによってイエス様と出会うことが出来るのです。この3人の博士の礼拝の様子を描いた絵画を見ますと、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大大陸の代表者として描かれたり、青年・壮年・老年という人生の3世代を表す姿で描かれたりしています。いずれにせよ、イエス様はイスラエルという唯一つの民族のための救い主としてではなく「万民の救い主」としてこの世に来られたお方であるということが、この3人の来訪と礼拝によって示されるのです。このエピソードを伝えているのはマタイ福音書だけです。そこに博士の人数は記されていませんが、黄金・乳香・没薬を捧げたため3人とされています。この3つの贈り物はそれぞれ、キリストの王権(黄金)、キリストの神性(乳香:神殿でたかれる香)、キリストの死・葬り(没薬)を象徴するシンボルとされています。

 このエピソードで印象的なことは、博士たちを導いた星の話です。星という字は「日+生」が組み合わさって出来ています。つまり、生まれた日という意味があるのです。私たち人間が、「このような運命の星の下に生まれた」とか、「なくなった人は夜空の星の一つになる」と、いつの時代にも考えているのは不思議です。イエス様の生まれた時に輝いた星は、私たちに、イエス様が人類を家族とするためにお生まれになったこと、神様がつくられたこの世界を一新し、一致させるために第2のアダムとしてお生まれになったことを示すのではないでしょうか? それゆえにイエス様への捧げ物は「黄金のように朽ちることのない愛」、「苦しみの炎の中から立ち上る乳香のような希望」、「死を超えて永遠の命へと飛躍させる没薬のような信仰」なのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*今年一年、私たちはどのような信・望・愛をイエス様に捧げることが出来るでしょうか?

聖家族  マタイ2:13~15,19~23  2019年12月29日

 クリスマスとご公現の間の日曜日、聖家族の祝日が祝われます。家庭・家族はどの時代にあっても大切な価値を持つものです。カトリック教会では、家族を「小さな教会」(現代世界憲章48~52)・「人生を学ぶ学校」(キリスト教教育に関する教令3)と表現しています。家庭は愛といのちの絆によって結ばれた人々が「ともにいる場」であり、家族の絆は日々、互いを思い合い、その人のためにしなければならないこと、してあげたいと思うことをことばや行いを通して実現してゆかなければ続かないもの、すなわち生きているものなのです。

 さて、福音朗読では聖家族がエジプトに難を逃れるために旅立ったことが語られました。このエピソードの中ではヨゼフ様の果たした役割はとても重要です。イエス様の誕生や幼年時代においてヨゼフ様の果たした役割がこれほど大切なのに、ヨゼフ様のことばは一言も記されていません。しかし、イエス様が「ヨゼフの子」(ルカ4:22、ヨハネ6:42)と呼ばれ、「大工の子」(マタイ13:55)と呼ばれていることからも、ヨゼフ様がナザレやガリラヤにおいて人々から深い人望を得ていたことが推察されます。

 ヨゼフ様は夢でお告げを受けます。マリア様の夫になる時も、そしてエジプトへ難を逃れる時も。夢という不確実なもの、多くの人は気にもとめないかすかな兆しをヨゼフ様は見逃しません。大切な家族を守るためです。マリア様も信頼するヨゼフ様がそう決めたなら疑うことなく信じてついてゆきます。ヨゼフ様は周りの人々に、「この人がこう言うならば」と思わずうなずいてしまう、深い、やさしい、広いまなざしと思いやりを感じさせる魅力があったのでしょう。ことばのたくみさや明快な説明がないとなかなか信じようともしない私たちですが、ヨゼフ様の人柄には、私たちのちっぽけなこだわりを溶かしてしまう、おだやかでありながら力強いものがあったのでしょう。

 知らない土地でどのように暮らしたらよいのか、マリア様や幼子に無理な旅をさせていないか、今日はどこに泊まろうか、ようやくヘロデ大王が亡くなったが本当に大丈夫かと、次々に起こる深刻な問題や悩みにもヨゼフ様は淡々と、しかも賢明に対処してゆきます。まさに職人業というべきか、学者のような難解な議論ではなく、癖のある材木を手でなぜただけでどう生かすか、形にするかを感じ取って、かんなやのみを使って見事な形に仕上げてゆく姿が彷彿とします。 「幼子は背丈も知恵も増し、ますます神と人に愛された」(ルカ2:52)に記されていますが、この平凡で単純に見えることを実際に行うことはなんと難しいことでしょう。家庭と教会、それは日々の祈りと努力によって育つものです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*家族のためにあなたが日々行っていることは何ですか?