今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -
王であるキリスト マタイ25:31~46 2023年11月26日
「この最も小さい者の一人にしたことはわたしにしてくれたこと」
今日祝う王であるキリストの祭日は、1年の典礼暦を締めくくるものであり、来週からは新しい典礼暦年、すなわち主の降誕を準備する待降節が始まります。さて、年間の最後の主日である今日は「王であるキリスト」ということがテーマになります。「王」というイメージにはいろいろな面があると思いますが、聖書では「最後の審判」と結びついています。当時の王はその国における最高の裁判官でもありました。
マタイ25章のこのたとえ話は、山上の垂訓から始まるイエス様の教えの最後を締めくくるものでもあります。何回も繰り返し述べられていた「愛」のテーマでもあります。「自分がして欲しいと思うことをしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」(マタイ7:12)とか、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛することと隣人を自分のように愛すること、律法全体と預言者の教えはこの二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)と総括しているように、このたとえもイエス様の教えを集約するものなのです。
また、このたとえの中に何度も繰り返されている「小さな者」も注目に値すると思います。わたしたちに期待されているのは「大きなわざ」や「偉大な仕事」ではなく、日常的とも言えるほど「小さなこと」なのではないでしょうか? マザー・テレサの「わたしたちに大きなことは出来ません。わたしたちが出来るのは小さなことに大きな愛をこめておこなうことです」という言葉を思い出してみると、このたとえ話も「恐ろしいもの、厳しいこと」ではなく、わたしたちの身近なところで神様を喜ばせることが出来ること、人間の目には小さく見えることの一つでさえも神様はお忘れにならず報いて下さることと受け止められないでしょうか? イエス様の教えはわたしたちを脅かすものではなく、わたしたちを愛の行ないへと促し、誘い、導くものであるからです。
神様は公平なお方です。わたしたちが人に対してしたようにわたしたちにして下さるのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(ルカ6:38)のです。つまり、天の国に入るための鍵はすでにわたしたちの手にゆだねられているのです。天の国に入りたいならば、この人々をゆるし、愛し、与えるのです。そうすれば父なる神はわたしたちをゆるし、愛し、与えて下さるからです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちに今からでも出来る神様を喜ばせることは何でしょうか?
*わたしたちの近くにいる小さな者とは誰でしょうか?
年間第33主日 マタイ25:14~30 2023年11月19日
「お前は少しのものに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ」
タレントということばは、いつの間にか「才能」とか、「人材」、さらには「芸能人」を示すようになり、日本でも知られていることばになっていますが、もともとはギリシアにおける貨幣の単位をあらわしていました。このことばがさきほどのような意味で用いられるようになったのは、聖書のこのたとえ話の影響だと思います。
さて、マタイ福音書のタレントのたとえでは、5タレント、2タレント、1タレントがしもべたちのそれぞれの力に応じて分け与えられています。1タレントは6000デナリ、つまり当時のイスラエル人の16年分の賃金に相当するという莫大な金額です。5タレント、2タレントを預けられたしもべたちは、それぞれ与えられたタレントを元手に主人から預かった財産を増やしました。主人はそれを褒め、「忠実な良いしもべだ。おまえは少しのものに忠実であったから多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言います。5タレントという莫大なお金を「わずかなもの」と言うこの主人は、忠実なしもべに自分のもっているすべてをまかせようと言っているのです。このしもべに与えられた報いは「主人と喜びをともにすること」すなわち「しもべではなく、息子とおなじようにあつかわれること」なのではないでしょうか?
しかし、1タレントをまかされたもう一人のしもべは失敗をおそれて、当時最も安全とされていた土の中に隠すというやり方をしました。このように預かったお金を土に埋めておきながら、それでも盗まれた場合には処罰の対象にならず、また弁償の責任も免れると、当時のイスラエルでは考えられていたようです。ところがこの主人は違います。主人が怒っているのは、「主人の心を知りながらなにもしなかった怠慢」が赦せなかったからです。このしもべは、銀行に預けるというリスクさえ負うことをさけたかったのです。つまり失敗して、叱られることを避けたかったのです。ならば、最初に主人から1タレントを預けられた時に断ればよかったのです。このしもべが何もしなかったのは「ひがみ」のせいかもしれません。なぜ、わたしは1タレントなのか? と他のしもべと比べ、金額が少ないことにやる気を失ったのかもしれません。彼には他の考え方もあったはずです。よし、この1タレントでもう1タレント以上のもうけを生めば自分が一番だ! とがんばる気持であったら、彼の人生は変わっていたかもしれません。彼は自分の気持ちに負けて何もしなかったのではないでしょうか?
【祈り・わかちあいのヒント】
*神様はあなたにどのようなタレントを預けておられるでしょうか?
年間第32主日 マタイ25:1~13 2023年11月12日
「十人のおとめのたとえ:わけられない油」
年間週日も終わりに近づいてきました。再来週の主日は「王であるキリストの祭日」すなわちその週で1年の典礼暦年が終わり、待降節を迎えることになるのです。A年を締めくくる最後の3つの主日では、終末をテーマとする3つのたとえ話が朗読されることになります。今日はその第1弾として、十人のおとめのたとえ話です。このたとえ話には、花婿の到来を待つ、花嫁のつきそいとなるべく選ばれた若いおとめたちが登場してきます。花嫁と同じ年頃で、自分たちもやがて結婚相手と巡り合い花婿を迎える立場となるおとめたちは、花嫁と同じ気持ちで花婿の到着を待ちわびているという設定です。
この花婿の到着を待つ時間が彼女たちの将来の明暗を分けてしまうことになります。彼女たちはみな若く、美しく着飾り、外見からはみな同じように見えたことでしょう。しかし、その心構えは違っていました。半数のおとめたちは「その時」を無為に過ごしていたのです。無為というよりは自分の好きなことに夢中になっていたと想像できます。花婿や花嫁のこと、宴会のごちそうのこと、自分の結婚のことなど、自分が関心のあることで心が一杯になっており、何のためにここに今、自分がいるのかを忘れてしまっていました。その結果、肝心な時になってから「油」のことに気がついたのですが間に合いません。扉は閉められてしまいました。
残りの五人のおとめたちは、第一に「花婿・花嫁」のことを考え、行うことを忘れていませんでした。彼女たちは「その時」に油を用意していなかった五人に油を分けて上げられませんでした。それは「わけられない油」であったからです。キリストの教えについての知識ならば分かち与えることは出来るでしょうが、その教えを受けた人がそれぞれ、その人の人生の中で、その愛を実践してきたかどうかは、その一人ひとりに委ねられていることだからです。ここにこのたとえ話の真のねらいがあると思います。終末とはいつか来る完成の時ではなく、すでに私たちの足元、毎日の生活の中に始まっているという心構えを持つことが大切ということなのです。救いの完成の時、それよりも先に迎えるであろう個々の人生の終わりを迎える時も同じことが言えるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちはキリスト者として、誰を、何を迎え入れる準備をすべきでしょうか?
*私たちが用意すべき油はどのように調達することが出来るでしょうか?
年間第31主日 マタイ23:1~12 2023年11月5日
今日の福音は、イエス様に議論をしかけた人々が退いた後に、イエス様がファリサイ派の人々と律法学者たちを厳しく批判する個所です。他の福音書においてもファリサイ派と律法学者たちは批判されていますが、マタイの伝えるものが一番長く、最も厳しいものになっています。
ファリサイ派というのは「分離された者」という意味で、その起源は紀元前150年ごろにさかのぼります。神殿を中心におこったサドカイ派(主に貴族階級)に対抗して、宗教の純粋性を守ろうとして厳格に律法を守ることを宗(むね)としていました。律法学者とは律法を学び、律法に精通した人たちで、ラビ(偉大な人)と呼ばれ、ファリサイ派に属していた人々が多かったと言われています。イエス様が彼らを批判しているのは、彼らが律法の条文だけを守って、肝心な精神によって生きていないからです。彼らが律法を守るのは、神に仕えるためではなく、人々に賞賛されたいためです。
イエス様がファリサイ派に嫌われた理由の一つには「安息日を守らない」ということがありました。安息日の掟とは「安息日を聖なるものにせよ」であり、その具体的な表わし方の一つである「労働を休むこと」、それは本人だけでなく家族も使用人も他国の人も、家畜も休ませよという趣旨のもので、神との語らい、人々との交わりを通して人間らしさを取り戻す日ということでした。しかしファリサイ派の人々は、安息日にしてはならないことを39の細かい規定にわけ、食事のために火を用いることも、歩く距離までも定めてしまいました。
イエス様にとってこれらは偽善とも言うべきものでした。「あなたがたは安息日であっても家畜に水を飲ませるではないか? 安息日に善をなすことと悪をなすこととどちらがゆるされているのか?」と問いかけたのです。
イエス様の弟子たちは「ラビ」という尊称も「指導者」と呼ばれることも許されません。それだけでなく、イエス様の弟子たちは「仕える者」としての姿勢を求められるのです。マタイはこの勧めを2回(20:26、23:11)も記しております。イエス様の弟子として生きるためには「学ぶことと仕えること」が大切です。すなわちイエス様が神のしもべとして来られた方なのですから、その弟子も同じ道を歩む者となるべきなのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが「でも」とか、「どうして」とイエス様に言ってしまうことは?
*人々の称賛がないと私たちが不満に思うのは、何故?
年間第30主日 マタイ22:34~40 2023年10月29日
「最も重要な掟とは」
マタイ福音書の22章では、ヘロデ派、サドカイ派、そしてファリサイ派の人々が次々にイエス様のことばじりを捕らえて、失脚させようと論争を挑んできます。今日は、ファリサイ派の人々の中の一人が「イエスを試そうとして」、ある質問をします。「掟のうち何が最も重要でしょうか?」と。
このエピソードは、ニュアンスは異なりますがマタイだけでなく、マルコ、ルカ福音書にも記されているもので、3つの福音書が書き記しているのですからとても大切な意味があるということがわかります。マルコ福音書(12:28~34)ではイエス様を試みようという動機での質問ではなく、友好的な対話として語られ、イエス様もこの律法学士を「あなたは神の国から遠くない」と誉めています。ルカ福音書(10:25~28)では、このことを答えているのは律法学士自身であり、イエス様が「それを行いなさい」と答えたところ、彼は「ではわたしの隣人とは誰ですか?」と問いかけ、イエス様が「よきサマリア人のたとえ」を語るというコンテキストです。つまり、永遠の生命をいただくためにこの愛の掟の重大性が語られるのです。
さて、マタイ福音書に戻って、もう一度、福音書のことばを眺めてみると、マタイではイエス様自身が「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」の掟をはっきりと宣言し、かつ最も重大なこととして、この掟が一つのものであると決定的に宣言なさいます。時として、人間は「神様を愛すること」と「神様が創られた人間を愛すること」を別々のことと理解しがちです。第1の掟と第2の掟はコインの両面のようにどちらかだけということが不可能なものなのです。隣人愛を無視して神様を愛することは不可能ですし、神様を愛すること無しに深い隣人への愛は生まれないからです。律法の細かい規則にはこだわるのに律法の源泉である「見えざる神への愛は見える人間を愛する道をたどること」を忘れてしまいがちなファリサイ派の人々に、強烈なインパクトを与えたことでしょう。イエス様はやがて十字架上でこのことを自らの姿で示されます。すなわち、十字架の横木は人々への愛、十字架の縦木は神様への愛、その愛は一つであり、その真ん中にイエス様の愛の掟があるということです。イエス様は両手を釘付けにされても決して閉ざされることのない愛を示されたのです。イエス様にとっても人々を愛することは血を流すような苦しみを伴うのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*「だれがその人の隣人になったか?」とイエス様は問いかけました。
私たちは誰かのために隣人になっているでしょうか?