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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第3主日(神のことばの主日)  マタイ4:12~23  2023年1月22日

 今日の福音にはイエス様のガリラヤにおける宣教の開始が語られています。何故、イエス様の福音宣教はガリラヤ地方において始められる必要があったのでしょうか? 当時のユダヤ人にとって宗教的な中心地は神殿のあるエルサレム、ユダヤ地方であったのに対して、ガリラヤは異邦人の地といささか蔑まれていました。確かにガリラヤ地方には異邦人も多く住んでいました。しかし、それゆえにイエス様の福音は神の民と異邦人がともに住むガリラヤこそ、ふさわしかったのです。イエス様は、約束されたメシア、しかしアブラハムの子孫であるユダヤ人だけの救いのためではなく、万民の救い主であることをこうして明らかにされたのです。

 イエス様が、ガリラヤでの宣教の開始と同時に弟子たちを呼び集められたことが、今日の福音で語られています。これにはもう一つの大切な意味があると思います。すなわち、私たちの信仰は常に共同体性を帯びているということです。「私と神様」の関係を結ぶことが信仰と考えられがちですが、「私たちと神様」の関係を深めることこそ、イエス様の信仰共同体の特色となるのです。イエス様は神様を父と呼ぶように教えられました。私たちの信仰は最初から共同体との関わりなしには生まれないのです。ちょうど私たちの人間としての誕生が父と母という共同体から生まれたように。

 私たちの信仰の基本は、(1)神様と愛と命の絆で結ばれるために今日も祈ること。(2)キリストを師として、信仰と与えられた人生をよりよく生きるために学び続けること。(3)私を支えてくれている仲間に感謝し、私も仲間のために何をなすべきかを問い続けること、そして行うこと。祈りなしの信仰は直ちに暗闇に沈んでしまいます。学びなしの信仰は自分の作り出す誤った固定観念によって生きた信仰を失わせます。奉仕のない信仰は不平と不満だけをやたらに人にぶつけるだけの愚か者にしてしまいます。ペトロたちはガリラヤ湖の漁師でした。陸地のように安定した場所、自分の才覚で生活の糧を稼ぎ出すというよりは、自然という、人間の力ではどうすることも出来ないものを相手にする、不安定で先の見えない職業に従事していました。だからこそ、決断と行動が早く、自分独りの力よりも仲間とともに力をあわせ、また神様に信頼をもつことなしには日々の生活が成り立たない人々でした。「すぐに網を捨て」、「すぐに舟を捨て」イエス様についていった4人はやがて弟子たちの中でも中心メンバーとなってゆきます。「また今度にします。いつかはそうなりたいと思います」と言い訳しがちな私たちですが、今日、新たな気持ちでもう一度始めたいと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「すぐに」と「ともに」は私たちの信仰の特徴です。あなたは「今」、「誰とともに」この信仰の道を歩んでいますか?

年間第2主日  ヨハネ1:29~34  2023年1月15日

 先週の月曜日に祝った主の洗礼から年間という季節が始まります。それに続く年間第2主日にはヨハネ福音書の記事が朗読されます。洗礼者ヨハネが述べた「神の小羊」という表現は、今日もミサの中で私たちが用いているイエス様の称号です。「神の小羊」ほど、イエス様の使命を端的に表している表現はありません。「小羊」と言えば、イスラエルの人々にとっては「過越しの食事」を連想させるものでした。あのエジプトからの脱出の時、モーゼはイスラエルの人々に命じました。「傷のない一歳の小羊をほふりなさい。その血を各家の入口の鴨居(横木)と柱(縦木)に塗りなさい。その血を見て、主の使いはイスラエルの家と知るであろう。そして、主の下す災いは過ぎ越すであろう」。過越しの食事はイスラエルの人々にとって、神の救いのわざにあずかるしるしとなりました。彼らは年に1度の過越祭の食事にエルサレムであずかることにより、自分たちが神の民であることを確認しあったのです。

 このような宗教的な背景がある中で、洗礼者ヨハネがイエス様を神の小羊と言った時、2人の弟子(ヨハネとアンドレア)は、「先生が『神の小羊』と言われたこの人にはきっと何かがある!」と思い、その後をついて行ったのです(ヨハネ1:35~42)。洗礼者ヨハネは「神の小羊」という表現をもって、イエス様が十字架(横木と縦木の組み合わされた形)の上で、自らの血を流し、自らをいけにえとして捧げ、それによって世の罪を贖い、世を救われるお方であることを最初から宣言しているのです。だから、この方こそ、「神の子」であると証しするのです。「神の小羊」が今日もミサの中で繰り返し使われるのには、それだけ大きな意味があるのです。

 私たちはイエス様をどのようなお方であると表現していますか?
「私にとってイエス様とは、○○○○○である」という自分らしい信仰表現を持つことのできる人は幸いだと思います。イエス様ご自身もいろいろな表現でご自分のことを言い表しておられます。「私は天から下ったパンである」「私は世の光、道、真理、命である」「私はぶどうの木」「私は一粒の麦」などなど。これらの意味を深く受けとめ、味わい、私たちの心の中にいつもイエス様の姿があらわれているように生きてゆきたいと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはイエス様をどのようなお方であると表現できますか?
*あなたにとってイエス様を語る時のキーワードは何ですか?

主の公現  マタイ2:1~12  2023年1月8日

 今日は降誕節の締めくくりとなる「主の公現」の祭日です。東方教会では今でも、「主の降誕」以上に全人類の救い主が全世界に示された祭日として、荘厳に盛大に祝われています。主イエス・キリストがお生まれになった夜、最初に救い主にお会いする大きな恵みを戴いたのは、ベトレヘムの野原にいた羊飼いたちでした。彼らはイスラエルを代表する人々となります。王や貴族、学者や身分の高い人たち、金持ちではなく、イエス様と同じく、家ではなく荒れ野に暮らしている人々、貧しい暮らしをしているこの羊飼いたちが一番目にイスラエルの救い主となるお方と出会うことが神様らしいなさり方です。この幼子はやがてイスラエルを導く牧者となる方です。マタイ福音書はミカ預言書の一節を引用して語ります。「ユダの地、ベトレヘムよ、お前はユダの指導者の中で、決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現われ、私の民、イスラエルの牧者となるからである」(ミカ5:2)

 この預言のことばは、今度は東方からやって来た3人の博士を幼子イエス様に引き合わせる手がかりとなります。星に導かれ、聖書のことばによってイエス様と出会うことが出来るのです。この3人の博士の礼拝の様子を描いた絵画を見ますと、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大大陸の代表者として描かれたり、青年・壮年・老年という人生の3世代を表す姿で描かれたりしています。いずれにせよ、イエス様はイスラエルという唯一つの民族のための救い主としてではなく「万民の救い主」としてこの世に来られたお方であるということが、この3人の来訪と礼拝によって示されるのです。このエピソードを伝えているのはマタイ福音書だけです。そこに博士の人数は記されていませんが、黄金・乳香・没薬を捧げたため3人とされています。この3つの贈り物はそれぞれ、キリストの王権(黄金)、キリストの神性(乳香:神殿でたかれる香)、キリストの死・葬り(没薬)を象徴するシンボルとされています。

 このエピソードで印象的なことは、博士たちを導いた星の話です。星という字は「日+生」が組み合わさって出来ています。つまり、生まれた日という意味があるのです。私たち人間が、「このような運命の星の下に生まれた」とか、「なくなった人は夜空の星の一つになる」と、いつの時代にも考えているのは不思議です。イエス様の生まれた時に輝いた星は、私たちに、イエス様が人類を家族とするためにお生まれになったこと、神様がつくられたこの世界を一新し、一致させるために第2のアダムとしてお生まれになったことを示すのではないでしょうか? それゆえにイエス様への捧げ物は「黄金のように朽ちることのない愛」、「苦しみの炎の中から立ち上る乳香のような希望」、「死を超えて永遠の命へと飛躍させる没薬のような信仰」なのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*今年一年、私たちはどのような信・望・愛をイエス様に捧げることが出来るでしょうか?

神の母聖マリア  ルカ2:16~21  2023年1月1日

  「幼子はイエスと名付けられた」
 毎年、新しい一年の始まりの日に捧げられる最初のミサで聞く聖書のことばは、民数記6章22節から27節までの祝福の祈りです。

「主はモーセに仰せになった。
 アロンとその子らに言いなさい。
 あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。
 彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」

 実に神様は天地創造の初めの時から、創られたすべてのものをよしとされ、祝福されてきました。神様のお望みは、初めから完成の時まで、よしとされ、それゆえに祝福されることなのです。この祈りの中に繰り返される「祝福」という言葉は、興味深いことに、ヘブライ語では「呪い」を意味する言葉(バラク)でもあります。同じ言葉でありながら正反対の意味になってしまうというのは何故でしょうか? 神様がどんなに良いものをお与えになっても、人間は時として、それを悪しきものに、すなわち呪いへと変えてしまうのではないでしょうか? 実に聖書の語る救いの歴史は、天地創造、アダムたちの創造に始まり、その楽園からの追放も祝福を呪いへと変えてしまう人間の愚かさが出発点となっています。

 神様は罪に汚れた地上を洗い清めようとして、ノアたちを選び、さらにアブラハムを選び、その子孫をご自分の民とされることを望みます。モーセに導かれてエジプトを脱出し、荒野で神の民となる契約を結び、神にふさわしい民、見えざる神の見える器である聖なる民となる使命と祝福を受けますが、その民の歩みは度々、神様から遠ざかります。彼らはまた祝福を呪いへと変質させてしまうのです。それでも神様はあきらめません。アダムたちへの約束の通り、ついに人類の救い主として、ご自分の御子を世にお遣わしになりました。この救い主に最初に出会うことを許され、招かれたのは、荒野に住む羊飼いたちでした。母マリアはその光景をしっかりと心にとどめていました。王宮に住む権力者たちでもなく、町で繁栄した生活を営んでいる人々でもなく、神の御子と同じく、野宿していた人々が招かれました。その幼子はイエス(神は救いであるという意味)と名付けられました。このイエスから、新しい、真の救いの歴史が始まるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*この一年をイエス・キリストと歩む決意をもっていますか?

主の降誕(日中のミサ)ヨハネ1:1~18  2022年12月25日

  「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった」
 クリスマスのミサも25日の日中のミサとなりますと太陽が空に輝いている時刻に行われます。明るい太陽の光の中で行われる主の降誕の日中のミサでは、ヨハネ福音書の冒頭に記されている序言、ロゴス賛歌とも呼ばれる荘重な響きをもっていることで知られる箇所が読まれます。ヨハネはこの箇所を創世記を思い浮かべながら書いています。それは救いの新しい時代の始まりを告げるためなのです。

 皆さんもよく知っておられるように、創世記における天地創造の物語では、「神は光あれと仰せになった。すると光があった」と語られています。よく考えてみると、神が光をお創りになる時に、わざわざ『光あれ』とことばを発せられたのでしょうか? 神は『光あれ』と思うだけで充分だったのに、わざわざ『ことば』を発して、命じておられるのは何故でしょうか? ことばも声の場合には姿は見えません。しかし、『思い』や『考え』とは違い、音として聞こえ、意志があらわされ、意味が伝わります。「万物は御子によって、御子を通して、創造された」とパウロが述べているのはこのことを表しています(コロサイ1:16)。神が光と闇を分けられたというテーマ(創世記1:3~4)は、神が歴史の中で悪の力に対して勝つということを表しています。神ご自身は生命に満ち、一点の曇りもない光そのものなのです。それゆえ、ヨハネは「みことばの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった……その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1:4~5,9)と語るのです。

 みことばは創造の働きを通して神とともに存在しておられましたが、みずからが被造物である人間の姿を引き受けることによって、人の世に現れました。しかし、世はこのお方を受け入れようとしません。しかし、自分を受け入れる人、その名を信じる人には、神の子となる資格、そのための道、その道を歩むための光と恵みをお与えになるのです(ヨハネ1:10~13)。神の子イエスの誕生がそうであったように、イエス様を信じることによって神の子らとされる人々も、アブラハムの子孫であるという血統からでもなく、モーゼの与えた律法の枠組みに拘束されることもなく、恵みと真理というイエス・キリストを通して与えられる光と生命によって生まれ出るのです。わたしたちが満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みをうけるために、イエス様は今日、わたしたちの間にお生まれになったのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが「初めに」行うべきことはなんでしょうか?