今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -
三位一体の主日 ヨハネ3:16~18 2023年6月4日
四旬節から復活祭、そして聖霊降臨という大きな典礼の季節を締め括るのは今週と来週の2回の主日です。そのテーマは「三位一体」と「キリストの聖体」です。実は、この2つのテーマは救いの歴史全体をあらわすキーワードなのです。したがって、別々の主日ではなく、三位一体と聖体には深いつながりがあるのです。
今週の日曜日のテーマである「三位一体」は、実はミサと関連があります。初代教会の人々は「父と子と聖霊」をすでに実感し、信仰を持っていましたが、それが理論化され、体系化されてゆくには時間がかかりました。その歴史のあいだには、キリストの神性を疑問視したり、反対にキリストの人性を疑問視したり、聖霊だけを切り離して強調する人々があらわれたりし、ようやくフィレンツェ公会議(15世紀)に至って、教義としてまとまりました。
三位一体の主日がカトリック教会全体で祝われるようになったのは10世紀ごろからです。そして、三位一体の信仰が教会の教えの根本であることを明確にするために、ミサを「十字架のしるしと三位一体への信仰告白のことば」で始めるという習慣がここからスタートしたのです。私たちキリスト者にとってはごく日常的な動作ですが、キリスト者ではない人々はこの動作をしているキリスト者を見る時に新鮮な驚きを感じるようです。
さて、三位一体の神について論理的に述べることはおよそ不可能です。むしろ、三位一体の特徴を受け止めることに心を向けてみましょう。神さまの本性は「愛」なるお方ですから、三位一体を説明するには「愛」を手がかりにすることがふさわしいと思います。愛は一人では成り立ちません。自己愛は不完全な愛ですから、愛には対象が必要です。父と呼ばれる存在と、その父の愛を完全に受け入れる子という存在の間に共有される愛こそが、聖霊と呼ばれるお方です。父と子の両者の間だけで愛は完結しません。完全な愛は両者が心をあわせて共通の方向に向かう時に完全なものとなります。父と子より出でて神様の愛の対象となる存在、すなわち私たち人間に神様の愛が遣って来られるのです。それが人となった神の子、イエス様であり、イエス様と御父の持つ完全な愛の心を私たちに与えることのために、十字架という完全な従順、祈り、信仰の姿が示されるのです。そして、イエス様の後に従って十字架の道を歩ませるよう力づけ、イエス様のことを絶えず思い起こさせるのが聖霊の働きです。聖霊は私たちの中に留まり、私たちを父と子の愛の交わりの中に引き上げてゆくお方なのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*十字架のしるしをする時、父と子と聖霊の御名を丁寧に唱えていますか?
*神を父と呼ぶことによって私たち人間の世界は何かが変わるでしょうか?
聖霊降臨の主日 ヨハネ20:19~23 2023年5月28日
「聖霊来て下さい」ということばで始まる聖霊の続唱の中に、様々な聖霊の働きが語られ、讃えられています。今日のミサにおける3つの聖書朗読の箇所も、聖霊の果たす役割を示しています。第1朗読の使徒行録では、使徒たちに降られた聖霊は彼らをみことばの宣教者とし、全世界の人々からなるキリストの教会を建設させるのです。第2朗読のⅠコリント書では、聖霊は一人ひとりの信仰者に信仰の賜物を与えてイエス・キリストを主と認めさせ、種々の奉仕の賜物を配分し、キリストの神秘体を形づくります。そして福音朗読では、復活したイエス様が新しい人間の創造主として、「神の子となる霊」を使徒たちに注がれます。使徒たちが新しい人間・神の子らとして生きるものとなったしるしとして、「罪のゆるし」を告げる権限が与えられます。
人間は、自分以外の他の人を罰することが大好きですが、ゆるすことは嫌いという傾向をもっているのです。ヨハネ福音書8章に記される「姦通の女」のエピソードは如実にその現実を語っていますし、ゼベダイの子らも、イエス様を受け入れようとしないサマリアの村に対して「天から火を降らせて、彼らを滅ぼしてはいかがでしょうか?」とイエス様に提案し、叱られています。旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、どの頁を開いても「罪」についてふれているとさえ言っても過言ではないかもしれません。「罪によって人々は生ける神より離れ」(ヘブライ3:12)、「神の声を聞くことを拒否し」(民数記14:22)、「神の子を十字架にかけてさらしものとし」(ヘブライ6:6)、「神の子を踏みつけ、恵みの霊を侮る」(ヘブライ10:29)のです。
自分の罪はゆるして下さいと祈るのに、自分に対して悪いことをした人々のことをゆるすことは出来ないのが、わたしたち人間の現実なのです。現在も世界に紛争が絶えないのはこの「憎しみの連鎖」が断ち切れないためなのです。しかし、イエス様の十字架はこの人類の罪の丘の上にそびえ立ち、天の父のいつくしみへの道を開かれたのです。罪に打ち勝つためには、神の息吹を受け、罪の根源となる悪しき心を「神の子の心=愛の掟を生きる=イエスの心に燃える愛の心=聖霊」によって変えて戴かなければならないのです。人に対する文句・不平・批判は「悪しき心」・「不信仰」のしるしです。それに対して、感謝・寛容・励ましは「新しき心」・「信仰」のしるしとなります。私たちキリスト者はあの「主の祈り」を唱えることにより、わたしたち一人ひとりが聖霊を受けることにより「罪のゆるし」の泉となるのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*この1週間の中で、誰かを幸せにすることばを語ったでしょうか?
それとも誰かを不幸にすることばを口にしてしまった…?
主の昇天 マタイ28:16~20 2023年5月21日
最後の晩餐・十字架・復活そして昇天・聖霊降臨は、イエス様の救いの出来事として深いつながりがあります。しかし、各福音書においてそれぞれ強調されるもの、またその表現には違いがあります。
昇天という出来事はマルコやルカ的な表現であり、他の福音書にはイエス様が天に昇られたという直接的な表現はありません。昇天というとどうしてもイエス様が私たちのいる地上から離れた場所、遠いところに行かれてしまい、私たちとイエス様が遠く離れてしまっているというイメージでとらえてしまうのが、現代の私たちの実感であろうと思います。
ところが、マルコやルカが昇天という表現を使ったのには、その反対の理由があったのです。
- ヒント①
- マタイは昇天について述べず、むしろイエス様は「世の終わりまであなたがたとともにいる」ことを強調しています。
- ヒント②
- 当時の人々、特にイスラエルの人々にとって「天」は、①神様のおられる世界(つまり、上の方にある)、②私たちが地上のどこにいても、必ず、私たちの上にあるもの、すなわち、いつも私たちとともにあるもの、という意味があるのです。従って、「天におられる神様」にはいつも私たちとともにいて下さる神様という意味があるのです。これは、ヘブライ語の「ハッシャマイーム」(天)ということばに、現代の日本語にはないニュアンスが含まれているからです。
それゆえ、マタイ28:16~20(今日の福音)が語っていることとルカ的な昇天の出来事は、矛盾するものではないのです。マタイの記事では、弟子たちが全世界に派遣されてゆきますが、自分の力で宣教をするのではなく、目には見えないけれどすでにその人々の中に隠れて働きかけているイエス様と協力しながら、イエス様の弟子たちとなるように働きかけてゆくことが宣教であると知らされているのです。「師と弟子」。これがマタイの宣教の特色です。キリスト者とは、生涯をかけてイエス様に学んでゆく心をもった人のことを示すことばなのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*どんな時、イエス様がともにおられることを感じていますか?
*イエス様とどんなことをよく話しますか?
復活節第6主日 ヨハネ14:15~21 2023年5月14日
復活節の最後の主日は、先週に引き続きヨハネ14章から福音が朗読されます。最後の晩餐の席上で語られたイエス様のことばは、やがて聖霊降臨において実現する大いなる出来事を予告する内容となっています。「あなたがたがわたしを愛し、わたしの掟を守るならば」という条件で、イエス様は3つのことを約束しておられます。第1には「弁護者=真理の霊」がともにいること。第2にはイエス様ご自身がわたしたちの内にいること。第3には「わたしの父はその人を愛し、父とわたしはその人のところに行き、ともに住む」と、父なるお方がわたしたちとともにおられることが約束されるのです(23節)。
イエス様は「聖母マリアに宿られ、人となること」により、世にご自分の存在を示されましたが、復活によって「信じる人の内に」、すなわちイエス様のことばを信じ、守り、生き、その教えを愛する人の内にイエス様は現存することを約束して下さいました。「しばらくすると世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(19節a)と語り、続いて「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(19節b)とイエス・キリストとわたしたちの間には生命的な絆があることを宣言されているのです。このことは15章の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」というたとえにおいて再び生き生きとした表現で語られ、深められるのです。
復活されたイエス様に出会いたいのならば、21節がその道を示してくれています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と語られているのです。すなわち、聖母マリアが神のことば=神様の意志を受け入れたように、わたしたちがイエス様のことばを受け入れ、それに生きるならば、マリア様の胎内にイエス様が宿られたようにイエス様はわたしたちとともにおり、その姿、現存を現されるのです。なんと大きな恵み、なんと大きな救い、希望でしょうか! 最後の晩餐の席で、イエス様がこんなに大きな恵みの約束を与えて下さっていますが、弟子たちにはまだわかりません。そのことを弟子たちに示す「真理の霊」が来られるまで、そのことを理解することは出来ません。しかし、弟子たちはイエス様が語られたことばは忘れていません。
【祈り・わかちあいのヒント】
*忘れてはならない「イエス様のことば」は何でしょう?
*これだけは「信じています」と言えるイエス様の教えは何でしょう?
復活節第5主日 ヨハネ14:1~12 2023年5月7日
復活節の日曜日にはヨハネ福音書が朗読されますが、第5主日のテーマは、イエス様は「道であり、真理であり、命である」というあの最後の晩餐でのお話です。まもなく弟子たちと離れ、父のもとに行こうとなさるイエス様は、彼らに「心を騒がせてはならない」と語られます。弟子たちはイエス様の受難と死が間近に迫っていることすら悟っていないので、イエス様が何を語られているのかさえもよくわからないという雰囲気です。
トマスやフィリッポの質問はどこか的はずれな感じがしませんか? しかし、彼らの質問のおかげで、少しずつイエス様が「誰であるか、どのようなお方であるか」が見えてくるのです。「イエス様は道であるお方」です。
狭い門、けわしい道について、山上の垂訓(マタイ5章)において、述べておられます。道は生き方を示す言葉として、日本語では茶道、華道、書道、剣道といろいろな用例がありますので、わかりやすいと思います。つまり、キリスト教というかわりに「イエス道」ということもできるのです。すなわち、イエス様のように考え、イエス様のように行ない、イエス様のように愛することがイエス様という道を歩くことにつながるのです。
事実、キリスト者、キリスト教(元来は「キリストの仲間たち」という意味)という名前が誕生する前には、この教えは「この道に従う者たち」と呼ばれていました(使徒行録9:2)。ですから、道という言い方には、その道の上に立っているだけでなく、自分の足でその道を歩んで行こうとする主体性、努力、精進が必要なのです。洗礼さえ受ければ、エスカレーターに乗るように天国に行けるとはイエス様は言っておられません。むしろ、「わたしに従いたいのなら、日々、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われています。
そのことは、今日の福音の箇所にはっきり記されています。「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる。わたしが父のもとに行くからである」(14:12)。これは、キリスト者全体、カトリック信者10億人が心を一つにして行なえば、確かに大きな業が実現することを意味します。「みなが一つとなるように」……これがキリストのわたしたちに対する望みです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちの今の歩みは「狭くて、けわしい」と感じる道でしょうか?
*今、「キリストの道」のどこを歩いているか、わかりますか?