今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -
四旬節第4主日 ヨハネ9:1~41 2023年3月19日
ヨハネ福音書9章では、ほぼ1章をかけて「生まれつきの盲人のいやし」が語られています。イエス様と弟子たちは神殿の近くでこの生まれつきの盲人と出会いました。弟子たちは当時のユダヤ人の考え方に従って、「この人が生まれついて目が不自由なのは、この人の罪の結果か、それとも先祖の罪の結果か」とイエス様に問い掛けるのです。するとイエス様は、「この人は病気のためにそうなったのであり、病気と罪は関係がない」と言われ、この人の目をいやします。
唾で土をこね、その人の目に塗り、「シロアムの池に行って、目を洗いなさい」と命じます。これはとても興味深い行ないであり、命令です。イエス様ならただ一言でいやすことも出来るのに、何故、土をこねたのでしょう。これは創世記に記された人間の創造のエピソードを思い起こさせます。
さらにそれを目に塗り、それから神殿の近くからエルサレムの城壁のはずれにあるシロアムの池までゆくように命じるのです。神殿はエルサレムで最も高いシオンの丘にあります。そこから目の見えない人がシロアムの池にゆくには、人ごみで混雑した街中、しかも坂もあり、狭い道、建て込んだ家々の間を通って、たどり着くまで時間もかかったことだと思います。
それでも彼は出かけてゆきました。見ず知らずの人が奇妙なことをした上にわずらわしいことを命じるのに、シロアムの池に向かいました。そして、生まれて初めてその目に光が宿ったのです。彼は自分の家に戻ってきました。両親や近所の人々は、彼の身に起こったことに戸惑います。喜びをともにするというより、当惑、さらには疑いを抱き、ファリサイ派の人々のところに連れてゆきます。ファリサイ派の人々は、イエス様のなさったこと、彼の身に起こったことを全く反対の方向で理解します。「安息日にしてはならないことではないか!」とイエス様のなさったことを非難します。イエス様は彼らのこのような行動、言動を「霊的な盲目」と指摘なさいます。
人間の一つの傾向として、ありのままを受け入れようとせず、自分の都合にかなうことは良いこととし、自分の都合や気持ちに合わないことは拒否したり、非難したり、悪口を言ったりするのです。人をいやす人、傷つける人、私たちのまわりにもいます。そして、私も時にその両方になることがあります……。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私も、見たいと思うものしか見ようとしていないのでは?
*イエス様のなさったことにケチをつけるファリサイ人をどう思いますか?
四旬節第3主日 ヨハネ4:5~42 2023年3月12日
さて、四旬節も第3週に入ります。これから3つの日曜日にヨハネ福音書が朗読されてゆきます。それらはいずれも有名な箇所です。今日は第4章のサマリアの女性との対話です。ヨハネ福音書の特徴の一つは女性たちの活躍です。
第2章では聖母マリアがカナの婚礼における最初のしるしと深く関わっており、また第4章のサマリアの女性との対話は、第3章のニコデモとの対話とペアになっている大切な対話です。また第8章の姦淫の女性、第11章のマリアとマルタの兄弟ラザロのよみがえり、第19章の十字架の下に立つ聖母マリア、第20章の復活したイエス様に出会うマグダラのマリアと、様々な女性たちとイエス様の関わりにヨハネは注目しています。
サマリアの女性とイエス様の対話は何気ないことばで始まります。「水を飲ませて下さい」とイエス様の方から声をかけられます。サマリアの女性はユダヤ人の男性から声をかけられて、いささか当惑、迷惑という気持ちで応えます。イエス様はサマリアの人々、女性だからということでわけへだてをするような方ではありません。このイエス様の一言から対話は始まってゆきます。
最初はこの女性はイエス様をからかうような調子で応えています。「この井戸は深いのです。あなたは汲むものをもっておられません」「またここに水を汲みにこなくてすむように、その水をください」とイエス様のことばをからかうような口調で応えています。
ところが、イエス様は深いあわれみのまなざしで、彼女の深く傷ついている魂に触れます。「あなたには5人の夫がいたが今連れ添っている人はあなたの夫ではない」と。彼女は見ず知らずのこの人が何故そのようなことを知っているのか!と驚きます(この部分は朗読箇所からカットされていますが……16節~19節)。この一言からサマリアの女性はイエス様のことを預言者だと思います。イエス様はご自分が預言者以上の者、すなわちメシアであることを言い表します。やがて、この女性は走ってゆき、イエス様のことを町中の人々に告げます。この女性の積極的で果敢な行動により、町の人々の多くがイエス様を信じ、自分たちのところにとどまるように願います。たった一人の女性がイエス様に会った感動、体験をためらわずに語ったゆえに……。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私はどんなことに渇いているでしょうか?
*私は日常生活の中でイエス様に出会っているでしょうか?
四旬節第2主日 マタイ17:1~9 2023年3月5日
毎年、四旬節の第2主日には、ご変容の箇所が朗読されます。エスドレロン平野の東部にぽつんと立っているタボル山がご変容の行われた山と言われています。今日でもタボル山の頂上にはご変容を記念する教会が建っています。その聖堂の内部の4つの壁にモザイク画が飾られています。そこにはイエス様の4つの姿が描かれています。小羊の姿、ご聖体の姿、十字架の姿、復活の姿だったと思います。
イエス様が十字架にかかって死ななければならないこと、しかし、3日目に復活することを弟子たちに話されましたが、弟子たちはこれを受けとめることが出来ませんでした。それゆえ、3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登りました。そして、そこで、人の子であるイエス様が「神の子」としての栄光、すなわち十字架の後に現れる復活の栄光の姿をお見せになったのです。その素晴らしさは、ペトロのことばに表れているように「もう、どこにも行きたくない、ここに留まるために家を建てましょう」と言わしめるほどでした。つまりペトロは「これ以上、素晴らしいことはないだろう、わざわざエルサレムで死ななければならないなどということは必要ないのでは?」と思ったのかもしれません。
しかし、雲の中から響いた声は、「これは私の愛する子、これに聞き、従いなさい」という内容でした。このことばは神様の救いの計画が十字架にあることを意味し、イエス様は十字架を負ってご自分の後に従いなさいと命じられています。 このご変容の出来事には大切なメッセージがあります。
- イエス様は様々な姿で私たちの前におられる。
- 私たちは3人の弟子たちのようにイエス様の素晴らしい栄光の姿を垣間見ることがある。
- しかし、私たちはイエス様の素晴らしさの全体をまだ知らない。
- それゆえに、私たちはイエス様の声に耳を傾けなければならない。
- イエス様が十字架を避けなかったように、私たちも自分の十字架を引き受けなければならない。
- イエス様は私たちのいつも1歩先におられる、ここで留まろうとしてはならない。
- この栄光を理解するには時間がかかることを忘れてはならない。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私がイエス様に魅かれるのは何故でしょうか?
*私がペトロだったら何を思い、何を語り、何をするでしょうか?
四旬節第1主日 マタイ4:1~11 2023年2月26日
灰の水曜日からいよいよ四旬節が始まりました。四旬節はキリストの受難を思い起こし、それに生きる期間ですが、聖書はキリストの受難と復活を切り離すことはありません。「苦しみを経て栄光へ」これは聖書全体の教えですが、特に四旬節の主日の朗読テーマとなっています。「四旬節の歩みを始めるわたしたちを導き、日々、あなたのことばによって生きる者としてください」と集会祈願で祈ったことを思い起こして下さい。キリストのいのちに生きるために今日もみことばに耳を傾けましょう。
さて、四旬節第1主日の福音は毎年、あのイエス様が試練と誘惑に打ち勝つ姿が朗読されます。第1の誘惑は「パンの誘惑」と呼ばれています。これは第1朗読の創世記のアダムの誘惑の物語と関連しています。アダムたちが禁じられていることを知りながらその実に手を伸ばしてしまったわけは「これを食べれば目が開け、神のように見える」ということにありました。ことばを換えて言えば、アダムたちは「自分の力で神様のようになること」、「自分を神にすること」すなわち「自分が望むように行いたい」という自己中心を正当化したような欲望を世界の中心にすえてしまったのです。そこからこの世界はおかしくなってゆくのです。人間が人間を自分の欲望を果たすための道具にしてしまうような世の中が始まってゆくのです。
悪魔はたくみに誘います。「イエス様、あなたは神の子ですよ。何でも望みどおりにできる力を持っておられます。ですからそれを望むままにお使いになったらどうですか? あなたは神の子なのですから、なにも苦労するようなことをしなくてもいいのではないですか?」というような調子です。自分の持っている物やお金や力を自分の為に用いることは、人間の世界では誰もとがめることが出来ないほど正当なこと……のはずですが、イエス様のこたえは違います。「人はパンのみにて生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」とのことでした。マタイ福音書は特に「一つ一つのことばによって」と強調しています。イエス様は悪魔の誘惑に対抗するために「聖書のことば」を引用しておられます。これは私たちが誘惑に対抗しようとする時にも有効な手段だと思います。自分の知恵や考え方、意見で対抗しようとしてもすぐに負けてしまいます。しかし、聖書のことば、神様のことばで自分を支えて戴くならば、違ってくるのではないでしょうか? 「自分の持っているものを自分の為に使いなさい」とこの世の価値観はそれをよしとしますが、イエス様はなんと「それが神様の御心にかなうことなのかをまず考えなさい」と勧めているのです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私を生かして下さる神様のことばはなんでしょうか?
*私がいつもおちいりやすい誘惑はどんなことでしょうか?
年間第7主日 マタイ5:38~48 2023年2月19日
ある聖書学者の説ですが、「『山上の垂訓』は美しいモザイクである」ということばがあります。マタイ福音記者はいろいろな機会にイエス様が語られたことを組み合わせてこの垂訓(説教)という形にしたという説明です。さて、今日の福音朗読ではその山上の垂訓の中でも、さらに言えば新約聖書の中でももっとも知られた箇所の一つが語られました。「目には目を、歯に歯を」という掟は、ハムラビ法典にも記されているように古代の中東世界では広く伝わっていたもので、過度な報復を戒めるというまことに「人間的な知恵」の集大成であるとも思います。もちろん、必ずしも「目を傷つけられた人は相手の目を傷つけよ」と命じているのではなく、相手に謝り、賠償として金銭で償うことも可能であることも旧約聖書は記しています(出エジプト記21:18~22:14)。
ところがイエス様の言われることは「天の父が完全であるようにあなたがたも完全な者となりなさい」というレベルの高いものなのです。何故、イエス様は私たち人間に神様の愛を目指せと言われるのでしょうか? その答えは、「あなたがたは『神の子』と呼ばれる」というあの山上の垂訓の冒頭に語られた「八つの幸い」にある宣言と関連しているのです。また主の祈りを教える中でも「もしあなたがたが人々のあやまちをゆるせば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるして下さる」(マタイ6:14)と語っておられます。
これらを一言でいえば、「私たちを神の子」として認め、それゆえに「神の子」らしく歩みなさいということがイエス様の言いたいことなのです。私たちはまわりの人々に比べて「まあまあ、ましだろう」という愛のレベルではなく、神様の望みであり目的である、神様の愛の高さ、深さ、広さに招かれているのです。それゆえに「狭い門」であり「けわしい道」でもあると思います。人間であることの基本的な権利さえも放棄して、イエス様と同じ姿、同じ生き方で歩むことはとても難しいことなのです。でもイエス様は諦めません。私たち人間がどんなに鈍く、物わかりが悪く、てこずらせても、もう見込みがないからと諦めないのがイエス様なのです。そのイエス様だからこそ十字架さえも引き受けるのです。イエス様の山上の垂訓の根底には天の父の愛、世の光として御子を遣わし、御子によって私たちの罪をゆるし、ご自分の子として私たちを受け入れて下さるという父の愛が流れているのです。この父なる神とイエス様の愛を根底におかなければ、今日のイエス様のことばは単なる理想論的な教えとしか聞こえないと思います。
【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは誰を愛し、誰を憎んでいますか? それでいいと思いますか?