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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第15主日 マタイ13:1~23  2020年7月12日

   「種蒔く人が種蒔きに出た」
 マタイ13章は、第3の垂訓が7つのたとえ話を通して語られており、そのテーマは「神の国」です。今日の福音はその最初のたとえ話、「種蒔きのたとえ」です。これはマタイ福音書に登場する最初のたとえ話であり、またイエス様自身の口からその意味が解き明かされているという点でユニークです。そのきっかけは弟子たちの質問です。

 10節~15節を見ると、弟子たちが「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか?」と尋ねています。イエス様の答えは15節にまとめられています。「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。」10章において、イエス様は弟子たちを派遣し、イスラエルの子らに福音を告げようとしたにもかかわらず、11~12章においてイエス様を受け入れようとしない頑ななイスラエルの有り様が語られておりました。

 それに続く13章では、もう一度、種を蒔くことから始めようとされるイエス様の思い、そしてそれを受け入れる土、受け入れない土、さまざまな人々の存在が暗示されています。私たちはどの土に似ているでしょうか? 道端のようにみことばそのものを放り出しているような心、石ころだらけの渇いた心、茨に囲まれており、やがて茨に栄養を奪われてしまう心、いずれにせよ、「わたしは良い土です」と言える人はいないと思います。このたとえ話の大切なところは、ここにあります。私は大丈夫だと誤った自信をもっている人(たとえばイエス様を受け入れなかったイスラエルの人々)が一番あぶないのです。

 人はみな、良い土ではないからこそ、神の国すなわち神の畑で働く人々によって耕されなければならないのです。固くなった土は掘り起こし、石ころだらけの土からは石を取り除き、茨の生い茂った土から茨を取り去らなければ、良い土にはなれないのです。それは自己変革を意味します。またこれまでの自分の姿・生き方を変えるという痛みを伴うものとなります。

 打ち砕かれた心、潤いのある心、日当りの良い心とならなければ、イエス様の蒔かれる種=みことばも芽を出さず、葉を伸ばさず、実を結ばずに終わってしまうのです。もう神様について知っていると思っていたイスラエルの人々がイエス様を受け入れなかったように、もうキリストについて知っていると思うキリスト者が一番あぶない状態にいるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは自分のどんなところを変えたいと思いますか?
*最近、心の潤い、足りてますか? 「神に感謝」を1万回唱えてみて下さい。

年間第14主日 マタイ11:25~30  2020年7月5日

   「賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」
 マタイ10章では派遣者イエスが描かれていましたが、11~12章では様々な論争の記事が記されています。イスラエルの人々はイエス様を受け入れるどころか、疑い、しるしをもとめ、ベルゼブルの力を借りる者とおとしめようとする人々さえ現れます。つまり、イスラエルの人々は本当のメシアよりも自分に都合のよいメシアを求めてしまうのです。それゆえに、イエス様に出会いながらイエス様を拒否してしまうという結果になってしまいます。

 今日の福音では、イスラエルの中で小さい人々、すなわちイスラエルの基準では「救われる価値のない、ダメな人々」が、かえってイエス様を受け入れたこと、そして、それは父の御心にかなうことであることがイエス様によって宣言されています。私たちは信仰というと「自分の頭で理解し、自分の判断で神を信じること」と思いがちですが、それは信仰ではなく哲学です。知恵のある者や賢い者は自分に頼り、自分の判断に自信を持ちます。そこに神様の助けは不要なものになってしまいます。それどころか「神」をあやつろうとさえします。

 歴史の中で何人もの人物が「神」になろうとしました。しかし、最期には人間は人間に過ぎないことを証明して死んでゆきました。イエス様の生れた時代のローマ皇帝はアウグストゥスでしたが、その名は「神の如き尊厳を持つ者」という意味をもっていました。確かに当時の全世界に匹敵する大帝国の皇帝でしたが、2000年後の今日では、イエス様の名前を知る人は多くいますが、アウグストゥスの名前を知る人は多くありません。また秦の始皇帝も大帝国を築き、地上の富という富を集め、不老不死の薬を探し求めましたが、それはかないませんでした。彼の築いた万里の長城は無用の長物の代名詞となりました。

 イエス様が当時のイスラエルの人々にメシアとして受け入れられなかったのは、イエス様が王のように栄華を誇るような姿でもなく、どんな敵をも打ち負かす将軍のような姿でもなかったからです。あまりにも平凡な柔和な一人の人間の姿だからでした。「私は柔和で謙遜な者」と訳されていますが、原意は「私は心貧しいものだから」という意味です。この「心の貧しい」には、父なる神さま以外に頼るものをもたないという意味があるのです。イエス様は人々を「休ませてあげよう」と招いておられます。現代の教会の風潮はややもすると「議論、会議、活動」に明け暮れ、イエス様の与えようとする「安らぎ、学び、祈り」を忘れていないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*ほんとうに休みたい時、どこに行きますか? 何をしますか?
*あなたは知恵ある者? それとも幼子のような人?

年間第13主日 マタイ10:37~42  2020年6月28日

   「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れる」

 今週もマタイ福音書10章の続きで、神の国の宣教者=キリストの弟子となる信仰者の覚悟が語られています。この10章は第2の垂訓と呼ばれる個所であり、その特徴は宣教者とイエス・キリストの結びつき・絆の強さです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(37節)のことばはそれを聴いていた弟子たちにも、そしてわたしたちにも衝撃的です。十戒にも「父母を敬え」という掟があり、東洋では「孝は忠の基なり」というほど、身近な家族、父母という目上を大切にすることは、人間社会においてはどの時代にも基本とされています。しかし、イエス様ご自身は弟子たちを指して「わたしの母、兄弟、姉妹とは誰か? 天の父のみ心を行う人は誰でもわたしの兄弟、姉妹また母である」(マタイ12:49)と宣言されるのです。

 このことはイエス様の特徴です。イエス様は、人間的な情緒・心情よりも、父なる神との絆、関わりを重んじておられるのです。ペトロが、イエス様の受難の予告を聞いて心配して諌めた時にも、「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と叱りつけました。それほどにイエス様にとっては、御父のみ旨を行うことは、最大、最高の優先課題なのです。そして、イエス様によってみ国が来ていること=神のみこころが地上に実現し始めていることをあかしすること=宣教を通して、はじめてペトロたちは真にキリストの弟子となってゆくことができるのです。それゆえ、「わたしの弟子であるという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と約束され、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(40-42節)と宣教を受け入れる人と弟子たち、イエス様、そして父なる神が一つの絆で結ばれてゆくのです。このことはマタイ福音書が強調している「二人、三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)ことを思い起こさせてくれます。さらにはマタイ福音書の掉尾に語られているように、弟子たちを派遣する際にも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)ことが強調されています。イエス様の弟子であるためには、時にはこの世の絆との決別が求められるのです。アブラハムがイサクを犠牲にすることを求められたように、そしてイエス様ご自身も十字架による死により、この世の命との決別を体験されました。しかし、その道にこそ、新しい命の道が開かれるのです。この世における父母、家族、友人との地上的な絆が、父なる神のもとでは永遠の命として高められるのです。そのためにイエス様は来られたのであり、これを一人でも多くの人に知らせ、その中に招きたいのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはイエス様について語ること、あかしすることを何故むずかしいと感じてしまうのでしょうか?

年間第12主日 マタイ10:26~33  2020年6月21日

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れるな」

 年間主日が再び始まり、今日はマタイ福音書10章、神の国の宣教者について語られます。マタイ福音書の特徴は、12人の弟子たちはイスラエルの家に派遣されているにもかかわらず迫害が予告されていることです。当時のイスラエルではエルサレムの神殿に巡礼に向かう人々を厚くもてなす習慣があったほどですから、弟子たちが袋も食べ物も用意せずに町や村に出かけて行っても、必ず迎え入れ、宿を貸してくれる人々がいたのです。マルコ福音書やルカ福音書の語る12人の弟子たちの派遣では、多くの町や村の人たちが彼らを喜んで迎え入れ、12人も喜んで帰ってきます。マタイ福音書でだけ、「イスラエルの子ら」のために遣わされているのにもかかわらず、「迫害」が予告されているのです。それはやがて訪れる師であるイエス様の受難を連想させるものであり、また弟子たちもイエス様と同じように十字架を担う決意が求められているのです。

 もう一つの意味として、アブラハムの血筋にこだわり、モーゼの律法に固執し、キリストの福音を受け入れようとせず、旧約の時代の信仰に留まろうとする人々への宣教の困難さが暗示されています。これは実に重要なことです。初代教会の宣教もユダヤ人たちから始まりますが、神の民であるはずの彼らが福音を受け入れず、かえってユダヤ人が軽蔑していた異邦人たちがこれを受け入れてゆく歴史があります。

 キリスト教が発展していったのは、キリスト教を信じた人々が、人種や言語や文化の違いを超えて同じ信仰の仲間であることを受け入れていったことと無関係ではありません。異質な人たちに対して、人間は、つい排除の論理を振りかざしてしまいますが、キリスト教は、神様を父と呼ぶことを教えたキリストによって、あらゆる人種や文化の違いさえも乗り越えてゆきました。だからこそ、「あなたたちは日本人なのになぜキリスト教徒なの?」と他の国のキリスト者から尋ねられることはありません。もし、そのような問いを発するとすれば、その人の信仰が疑われることになります。

 イエス様に遣わされた12人の弟子たちを受け入れず、迫害してしまうユダヤ人たちの悲劇は今日にも起こりうることです。彼らが弟子たちを迫害したのは、弟子たちが語るナザレのイエスの教えが旧約の掟の枠に留まることなく、神様のあわれみに応えることを求めるものだったからだと思います。律法の文字ではなく、律法を与えた神のみこころに応えようとする生き方、姿勢、努力が求められているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様の規準はすべて「天の父」でした。わたしの規準はなんでしょう?
*神様がともにおられることを信じた聖母マリアの姿に学ぶべきことは? 

キリストの聖体 ヨハネ6:51~58  2020年6月14日

 聖霊降臨・三位一体に続き、キリストの聖体の主日が祝われます。キリストの聖体は、この地上の旅を続ける私たちに天からのパンとして、神様が荒野を旅したイスラエルの民に命の糧を与えたように、今日も私たちキリストの民を心にかけ、私たちを養い、強めるために、いつも私たちとともにいて下さるキリストの現存のシンボルとして与えられました。

 今日の福音書はヨハネの6章(ヨハネの聖体論と呼ばれるところ)です。5つのパンから5000人もの群衆を養うという大きなしるしを見て、群衆はこの方こそ、預言者であり、イエス様を王にしようと思うほどに熱狂しました。

 しかし、イエス様は、ご自分がモーゼ以上の方であり、また地上の王のような姿ややり方ではない方法で世を救われることを群衆に話されるのです。それは十字架と復活という人々には理解しがたい道を通って、天の父のもとに人々を導くということでしたので、次第に群衆はイエス様がわからなくなってゆきます。

 今日の福音でイエス様は「私は天から降ってきた生きたパンである」と語られます。パンは麦から作られます。麦は臼でひかれ、粉となり、水や酵母が加えられ、そして火で焼かれます。ようやく、出来あがったパンは食卓に載せられると冷えないうちに、硬くならないうちに人々の手にとられて、裂かれ、人々の口に入り、体の中に入ってしまうとその姿は見えなくなりますが、パンは飾られるために存在しているのではなく、食べられるために存在しているのです。つまり、見えない姿になってこそ、すなわち人の体の中に入ってこそ、その人の生命を養い、そしてその人の肉体の一部分になるのです。

 イエス様の使命もこのパンの使命と似ているのです。イエス様は王のように宮殿の奥に飾られるためにこの世に来られたのではありません。パンという日常の糧のように、いつでも、どこでも、だれにでも触れることのできる近いところにおられ、その人の心の中に入り、その人を生かすことがイエス様の使命なのです。それゆえ、ご自分のことを「生きたパン」とたとえられるのです。イエス様は十字架上でパンのように裂かれ、その姿は見えないものになりますが、私たちの心の中に復活し、私たちを生かすものとなるために「天からやって来られた」お方なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様の使命は「人を生かすこと」、イエス様を戴いた私たちは誰かを生かそう、元気づけよう、励まそうとしていますか?