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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第7主日  マタイ5:38~48  2020年2月23日

 ある聖書学者の説ですが、「『山上の垂訓』は美しいモザイクである」ということばがあります。マタイ福音記者はいろいろな機会にイエス様が語られたことを組み合わせてこの垂訓(説教)という形にしたという説明です。さて、今日の福音朗読ではその山上の垂訓の中でも、さらに言えば新約聖書の中でももっとも知られた箇所の一つが語られました。「目には目を、歯に歯を」という掟は、ハムラビ法典にも記されているように古代の中東世界では広く伝わっていたもので、過度な報復を戒めるというまことに「人間的な知恵」の集大成であるとも思います。もちろん、必ずしも「目を傷つけられた人は相手の目を傷つけよ」と命じているのではなく、相手に謝り、賠償として金銭で償うことも可能であることも旧約聖書は記しています(出エジプト記21:18~22:14)。

 ところがイエス様の言われることは「天の父が完全であるようにあなたがたも完全な者となりなさい」というレベルの高いものなのです。何故、イエス様は私たち人間に神さまの愛を目指せと言われるのでしょうか? その答えは、「あなたがたは『神の子』と呼ばれる」というあの山上の垂訓の冒頭に語られた「八つの幸い」にある宣言と関連しているのです。また主の祈りを教える中でも「もしあなたがたが人々のあやまちをゆるせば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるして下さる」(マタイ6:14)と語っておられます。

 これらを一言でいえば、「私たちを神の子」として認め、それゆえに「神の子」らしく歩みなさいということがイエス様の言いたいことなのです。私たちはまわりの人々に比べて「まあまあ、ましだろう」という愛のレベルではなく、神さまの望みであり目的である、神さまの愛の高さ、深さ、広さに招かれているのです。それゆえに「狭い門」であり「けわしい道」でもあると思います。人間であることの基本的な権利さえも放棄して、イエス様と同じ姿、同じ生き方で歩むことはとても難しいことなのです。でもイエス様は諦めません。私たち人間がどんなに鈍く、物わかりが悪く、てこずらせても、もう見込みがないからと諦めないのがイエス様なのです。そのイエス様だからこそ十字架さえも引き受けるのです。イエス様の山上の垂訓の根底には天の父の愛、世の光として御子を遣わし、御子によって私たちの罪をゆるし、ご自分の子として私たちを受け入れて下さるという父の愛が流れているのです。この父なる神とイエス様の愛を根底におかなければ、今日のイエス様のことばは単なる理想論的な教えとしか聞こえないと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは誰を愛し、誰を憎んでいますか? それでいいと思いますか?

年間第6主日  マタイ5:17~37  2020年2月16日

 今日の福音朗読は山上の垂訓の中で、厳しい調子で語られている箇所です。一見するととても不可能なことのようにさえ思える戒めが続いています。これらのことばは一体何を示しているのでしょう。そのヒントは第1の部分にあります。イエス様は「律法を完成させるために来られたお方なのである」ということです。旧約の律法は、どんなに厳しくとも「人の心」ではなく、「人の行い」を規制するものでした。ある人を心の中で憎いと思っても、悪口や暴行という実力行使をしなければ、律法では罰されることはありません。しかし、イエス様は悪口や暴行という行為がなくても、その人を憎むという「心の状態」を問題にされているのです。

 イエス様のことばは単なる処世訓ではありません。罪を犯させるきっかけとなるものや躓きを起こさせるものをするどく「えぐり出せ」というのは、人間には遵守不可能な命令にさえ感じますが、一方でイエス様は姦通の現場でとらえられた女性(ヨハネ8:1~11)に対しては「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」と言っておられます。イエス様は人間の仕出かす悪や罪は憎まれますが、罪を犯す人そのものを憎むことはないのです。

 ここに福音があるのです。私たちがどのような罪を犯しても、愛である神は罰することよりも赦し、立ち直ることを望んでおられることを、イエス様ははっきりと語られているのです。本当に自分の罪を悔いている人は、同じような過ちを繰り返すことはしたくありません。それならばどうすればよいのでしょうか? それはイエス様と一緒に歩むことを決意すべきなのです。人間は自分の心でありながら、自分の努力によってこれを変えることはできません。人間の心を変えることが出来るのは人間に心を与えた神さまだけなのです。それゆえに罪を犯したくないと思うならば、イエス様と一緒に歩む必要があるのです。ただお一人イエス様だけが、父なる神のみ旨に従ってどんなことでもなされるお方なのですから。いつでもイエス様には「はい」とだけ答える決意が必要なのです。私たち人間の現実生活では、いつも言い訳や正当化というものがつきまといます。しかし、神様の前でそのような言い訳は不要であり通用しないのです。それでも私たちの言い訳を神さまはじっと聞いて下さることでしょう。しかし神様の顔はきっと悲しそうでしょう。そしてそれでも赦して下さるでしょう。だからもう二度と神さまに悲しい顔をさせたくないと考える人は幸いな人だと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが「はい」と言うべきことはどんなことでしょうか?
*私たちが「いいえ」と言うべきことはどんなことでしょうか?

年間第5主日  マタイ5:13~16  2020年2月9日

 山上の垂訓には、日本人にもよく知られている聖書のことばが度々登場しますが、今日の箇所もその一つではないでしょうか? 「あなたがたは地の塩である」とのイエス様の教えは何を私たちに示唆するものでしょうか。

 まず、このことばを聞く時、幼いイエス様が台所でお料理をしているマリア様のそばに立って、見ているような場面が想像されます。「塩はとっても大切なもの、味をつけたり、人間の体に必要なもの、でも多すぎても料理全体がダメになってしまうものなのよ」とお母様であるマリア様が語っているような風景が目に浮かんできます。

 私たち地球上の生物はみな、水と塩というものが不可欠なのです。多くの生物が海という塩を含む水から誕生したこと、胎児が子宮の中で育ってゆくときの羊水が海の水とほぼ同じ塩分、ミネラルのバランスであることを考えても、塩の役割は大変重要なのです。

 塩の役割は、①味をつける ②清めに用いる ③呪いを意味するなど、聖書の中でもいろいろな使用例があります。味付けということを考えてみると、塩のもつおもしろい性質に対比作用というものがあります。他の味の中に塩がほんの少量入ることによって、塩の味はわからないのに、その他の味が強く感じられるということです。わかりやすい例としては、お汁粉を作る時、砂糖の他にほんの少々の塩を加えることによって、お汁粉の甘さが増すのです。

 「あなたがたは地の塩」とイエス様が言われたとき、「あなたがたのことばや行ないは、あなたがた自身を目立たせるためのものであってはならない。むしろ隠れて、しかし、みんなのために、みんなを生かすという隠れた働き方こそキリスト者として必要なこと、大切なことなのだ」という意味もあったのではないでしょうか? 塩は隠し味として用いられる時にこそ、その力が大きく現れるのです。反対に塩の味がのさばると、顔をしかめられた上に、その食べ物の味さえ、壊してしまい、ひどいときにはもう食べられやしないとすべてが捨てられてしまうことさえあるのです。皆様! ご用心! 私たちが「いいこと」と思っても、隠し味としてみんなを生かしているか、それとも……

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは「隠し味」としての塩の役割を果たしているでしょうか?
*塩が味を失う時とは、私たちがどのような状態の時でしょうか?

2020年2月2日 主の奉献  ルカ2:22~40

  「わたしはこの目であなたの救いを見た」
 毎年、主の降誕から40日後「主の奉献」の祝日が祝われます。幼子イエスが聖母マリア様と聖ヨセフ様とともに初めて神殿を訪れます。イエス様の生涯において、神殿は度々重要な場所として描かれます。12歳の時に3日間、その姿が見えなかったこと(ルカ2:41~50)には、イエス様の復活までの3日間が早くも暗示されています。また「この神殿を倒してみよ。私は3日でこれを建て直す」ということばも復活を示すものです(ヨハネ2:19~20)。神殿は「父の家、祈りの家」であるとイエス様は宣言されており、その名は私たち教会の聖堂にも受け継がれています。そして、その場所で聖霊に満たされたシメオンとアンナに出会い、この幼子が救い主であることがこの2人の男女、アダムとイブを連想させる人物によって、人々に告げ知らされるのです。

 この2人は、メシアの到来を待ち焦がれていた旧約時代の義人を代表する者として幼子イエスと出会います。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっており、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを受けていた」と記されています。シメオンは貧しげな家族に出会い、その幼子を見て、腕に抱き上げ、神をたたえて言います。「主よ、今こそお言葉のとおり、しもべを安らかに去らせて下さい。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」とシメオンは賛歌を捧げます。このシメオンとアンナは、イエス様を受け入れるイスラエルの共同体を代表するものとなります。イエス様たちは「モーセの律法に従って、清めの期間を過ごした後に、初めて生まれた男の子を捧げるため」に神殿にやって来たのです。神殿には正しく、信仰の厚いシメオンが待っていました。アンナも神殿から離れることなく、夜も昼も神に仕えていた人物です。私たちもイエス様に会いたい、見たいと望むならば、「待つ」姿勢が大切です。それは何もせずにただ時を過ごすということではなく、神様のみ旨を思いめぐらし、隠れてお出でになるイエス様に気がつかなければなりません。

 他の人々にはイエス・マリア・ヨセフの3人はどこにでもいるような平凡な家族にしか見えなかったかもしれません。しかし、心からメシアを待ち望んでいたシメオンには、この幼子とその母の姿に、他の何者にも持ちえない神様との純粋で光り輝いた絆が感じられたのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはこの幼子を見て、メシアを感じることができるでしょうか?

年間第3主日  マタイ4:12~23  2020年1月26日

 今日の福音にはイエス様のガリラヤにおける宣教の開始が語られています。何故、イエス様の福音宣教はガリラヤ地方において始められる必要があったのでしょうか? 当時のユダヤ人にとって宗教的な中心地は神殿のあるエルサレム、ユダヤ地方であったのに対して、ガリラヤは異邦人の地といささか蔑まれていました。確かにガリラヤ地方には異邦人も多く住んでいました。しかし、それゆえにイエス様の福音は神の民と異邦人がともに住むガリラヤこそ、ふさわしかったのです。イエス様は、約束されたメシア、しかしアブラハムの子孫であるユダヤ人だけの救いのためではなく、万民の救い主であることをこうして明らかにされたのです。

 イエス様が、ガリラヤでの宣教の開始と同時に弟子たちを呼び集められたことが、今日の福音で語られています。これにはもう一つの大切な意味があると思います。すなわち、私たちの信仰は常に共同体性を帯びているということです。「私と神様」の関係を結ぶことが信仰と考えられがちですが、「私たちと神様」の関係を深めることこそ、イエス様の信仰共同体の特色となるのです。イエス様は神様を父と呼ぶように教えられました。私たちの信仰は最初から共同体との関わりなしには生まれないのです。ちょうど私たちの人間としての誕生が父と母という共同体から生まれたように。

 私たちの信仰の基本は、(1)神様と愛と命の絆で結ばれるために今日も祈ること。(2)キリストを師として、信仰と与えられた人生をよりよく生きるために学び続けること。(3)私を支えてくれている仲間に感謝し、私も仲間のために何をなすべきかを問い続けること、そして行うこと。祈りなしの信仰は直ちに暗闇に沈んでしまいます。学びなしの信仰は自分の作り出す誤った固定観念によって生きた信仰を失わせます。奉仕のない信仰は不平と不満だけをやたらに人にぶつけるだけの愚か者にしてしまいます。ペトロたちはガリラヤ湖の漁師でした。陸地のように安定した場所、自分の才覚で生活の糧を稼ぎ出すというよりは、自然という、人間の力ではどうすることも出来ないものを相手にする、不安定で先の見えない職業に従事していました。だからこそ、決断と行動が早く、自分独りの力よりも仲間とともに力をあわせ、また神様に信頼をもつことなしには日々の生活が成り立たない人々でした。「すぐに網を捨て」、「すぐに舟を捨て」イエス様についていった4人はやがて弟子たちの中でも中心メンバーとなってゆきます。「また今度にします。いつかはそうなりたいと思います」と言い訳しがちな私たちですが、今日、新たな気持ちでもう一度始めたいと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「すぐに」と「ともに」は私たちの信仰の特徴です。あなたは「今」、「誰とともに」この信仰の道を歩んでいますか?