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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第18主日 マタイ14:13~21  2020年8月2日

    「5つのパンと2匹の魚」
 今日の福音朗読は、ガリラヤにおける宣教活動の中でも最大の奇跡と呼ばれる「パンの増加」の奇跡です。この奇跡は4福音記者すべてが取り上げているほど大きな意味を持つ奇跡です。マタイ福音書とマルコ福音書では「パンの増加」の奇跡は2度にわたってあったことが記されており、5000人が養われて、なお12のかごにパンくずがあまったこと(マタイ14:13~21)、さらに4000人が養われて7つのかごにパンくずがあまったこと(マタイ15:32~39)が記されています。この12はイスラエルを象徴する数であり、また7は万民を象徴する数であると言われています。神様の恵みの広さ、深さ、大きさ、高さはまさにすべての人におよぶものであることを雄弁にあらわしています。

 マタイ福音書ではこの奇跡の導入として、「洗礼者ヨハネが死んだことを聞くと舟に乗り、人里離れたところへ退かれた」ことが記されています。洗礼者ヨハネは旧約時代の悼尾を飾る預言者であり、イエス・キリストの先駆者です。この洗礼者ヨハネが殉教したことにより、旧約時代は終わり、イエス様の十字架によって新約時代の幕が開くことになるのです。その使命を果たす直前に最後の晩餐があったように、ガリラヤでの宣教活動の締めくくりの時を迎えて群衆に神様の豊かな恵みを惜しみなく与えるイエス様の姿が、この奇跡を通して描かれているのです。

 舟から上がったイエス様は群衆を深く憐れみ、その中の病人をいやされました。気がつくと夕暮れが近づいています。イエス様を求めて荒れ野について来てしまった群衆を心配して、弟子たちがイエス様に提案しました。しかし、イエス様の答えは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」という途方もないことばでした。弟子たちは当惑したことと思います。何故なら彼らの手元には「5つのパンと2匹の魚」しかなかったからです。人間的な考えからすれば「何の役にも立たないほどわずかなもの」です。たしかにわずかなものですが、その数は「5+2」すなわち7です。すなわち「神様の祝福と恵み」を意味する数字です。わずかなものでも「イエス様が手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちがイエス様から戴いたパンを群衆に与える」とそこには新しい現実が始まるのです。すなわち、イエス様に出会う人々は「空の手、空の心で返されることはない」という恵みの時が始まるのです。その恵みの時は今日もみことばとご聖体を通して、私たちにも与えられ続けているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちがイエス様に捧げる7つのものは何でしょうか?

年間第17主日 マタイ13:44~52  2020年7月26日

   「天の国は畑に隠された宝」

 今週は、マタイ13章「第3の垂訓」の締めくくりとなる短い4つのたとえ話です。この4つのたとえ話はマタイ福音書にだけ記されているもので、マタイが属していた初代教会の事情を反映していると聖書学者は指摘しています。それは、マタイ福音書の最初の読者であった人々が置かれている状況の中で、どのようにイエス・キリストの福音を受けとめ、どのようにそれに応えて生きてゆくかの決断を迫っているのです。貴重な宝が埋まっている畑に気がついた人はどのようなことを決断し、行動するでしょうか? 高価な真珠を見つけた商人はどのような決断・行動をするでしょうか?

 イエス・キリストの福音の教えに出会った人は、それを受け入れて生きる決断が求められているのです。理解して、良い教えだと心で賛同するだけで終わってはならないのです。心の中の賛同だけでは、「種蒔きのたとえ」の道端の土で終わってしまうのです。心からの賛同であるならばそれは「生き方」に表われるものなのです。これまでの自分の人生とは違う生き方へ、自分がどのように用いても良いものと思っていた時間とお金と才能の「父のみこころにかなう」生かし方へと変わるはずなのです。

 「すべてを引き上げる網のたとえ」と「倉から古いものと新しいものを取り出す主人のたとえ」が意味しているのはどのようなことでしょうか? 私たちが生きるために必要なものは何でしょうか? 私たち人間には、水・空気をはじめとして食べる物も、着る物も、住むところも、仕事もお金も必要です。しかし、それらのものが満たされたからと言って、それだけで幸せに生きることが出来るものでしょうか? 心をもたないそれらの物質を、心を持っている人間以上に優先してしまうところに人間の世界の悲劇が起こっているのではないでしょうか? イエス・キリストの福音を心から受け入れるためには私たちの心にゆとりがなければならないのです。自分の心一杯につまっているガラクタやゴミのような思い、ことば、行いを捨て去らなければならないのです。ムダなことばやムダな行いをへらさないと、本当に必要なことが出来なくなってしまうのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたにとってすべてを引き換えにしてでも手に入れたいものは何ですか?
*あなたの心に今、何がつまっていますか? それは本当に大切なものでしょうか?

年間第16主日 マタイ13:24~30  2020年7月19日

   「毒麦もそのままにしておきなさい」
 今週もマタイ13章「第3の垂訓」の続きです。この垂訓では天(神)の国に関する7つのたとえ話が語られています。今日の朗読箇所で語られたたとえ話は「毒麦のたとえ」と呼ばれ、先週の「種蒔きのたとえ」と同じく、イエス様自身によって、このたとえ話の意味が語られているのですが、それでもなお、理解することが難しく感じられるのではないでしょうか? それは「信仰の逆説」と聖書学者が名づけた「天の国の神秘」が語られているからなのです。マタイ福音書には天の国に関するたとえ話が12あると言われていますが、そのすべてに共通する性格があります。すなわち、神の恵みと裁き、祝福と呪いという対立と、神の恵みが人間の思慮を超え、その計量と予想を空しくするということなのです。

 つまり、毒麦のたとえについて言えば、人間の常識として考えると、一時的とは言え神様が悪の存在を容認しているのは何故なのでしょうか?という疑問が誰でも思い浮かぶと思います。目の前の現実がどんなに悲惨でも、この現実も神様の御心においては意味のあることであるということを信じられるか?ということが、信仰者にはいつも問いかけられているのです。人間は自分の理解できないことを否定したり、排除したりしがちです。典型的なこととして、「神様がおられるのに何故、こんな悲惨な戦争が起るのか?」と私たちは思うことがあります。しかし、教皇聖ヨハネ・パウロ2世が広島で語られたように、「戦争は人間のしわざです」。神様が戦争を始めたのではないのに戦争を神様のせいにしてしまうのが人間の愚かさ、身勝手さなのです。では自然災害は? では病気は? と次々に神様のせいにしてしまうことを思いつくほどなのです。では神の子を十字架につけてしまったのは? 誰でしょうか?

 イエス様の十字架上の死こそ、信仰の逆説の頂点なのです。人間が出来る最悪の罪悪は神様の差し伸べた御手をはねつけてしまうことなのです。それでも神様は私たちを見捨てないという意思表示が十字架の死を引き受けるイエス様なのです。教会の中にすら良い麦と毒麦は共存しているというショッキングな現実があっても、私たちが信じているのは人間ではなく「神様」であることを忘れてはならないのです。そして、もう一つ、この毒麦のたとえの強烈な点は、「自分が毒麦である可能性に気がついているか」ということにあります。自分は信仰者として立派であるなどと思っている人こそ、実は毒を撒き散らしているやっかいな存在であったりしているのが人間の現実なのです。そのような人間に対してさえも、まだ「回心の可能性とその時間」を与えて下さっているのが神様なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたの心の中にも良い麦と毒麦の両方があると思いますか?

年間第15主日 マタイ13:1~23  2020年7月12日

   「種蒔く人が種蒔きに出た」
 マタイ13章は、第3の垂訓が7つのたとえ話を通して語られており、そのテーマは「神の国」です。今日の福音はその最初のたとえ話、「種蒔きのたとえ」です。これはマタイ福音書に登場する最初のたとえ話であり、またイエス様自身の口からその意味が解き明かされているという点でユニークです。そのきっかけは弟子たちの質問です。

 10節~15節を見ると、弟子たちが「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか?」と尋ねています。イエス様の答えは15節にまとめられています。「この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。」10章において、イエス様は弟子たちを派遣し、イスラエルの子らに福音を告げようとしたにもかかわらず、11~12章においてイエス様を受け入れようとしない頑ななイスラエルの有り様が語られておりました。

 それに続く13章では、もう一度、種を蒔くことから始めようとされるイエス様の思い、そしてそれを受け入れる土、受け入れない土、さまざまな人々の存在が暗示されています。私たちはどの土に似ているでしょうか? 道端のようにみことばそのものを放り出しているような心、石ころだらけの渇いた心、茨に囲まれており、やがて茨に栄養を奪われてしまう心、いずれにせよ、「わたしは良い土です」と言える人はいないと思います。このたとえ話の大切なところは、ここにあります。私は大丈夫だと誤った自信をもっている人(たとえばイエス様を受け入れなかったイスラエルの人々)が一番あぶないのです。

 人はみな、良い土ではないからこそ、神の国すなわち神の畑で働く人々によって耕されなければならないのです。固くなった土は掘り起こし、石ころだらけの土からは石を取り除き、茨の生い茂った土から茨を取り去らなければ、良い土にはなれないのです。それは自己変革を意味します。またこれまでの自分の姿・生き方を変えるという痛みを伴うものとなります。

 打ち砕かれた心、潤いのある心、日当りの良い心とならなければ、イエス様の蒔かれる種=みことばも芽を出さず、葉を伸ばさず、実を結ばずに終わってしまうのです。もう神様について知っていると思っていたイスラエルの人々がイエス様を受け入れなかったように、もうキリストについて知っていると思うキリスト者が一番あぶない状態にいるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは自分のどんなところを変えたいと思いますか?
*最近、心の潤い、足りてますか? 「神に感謝」を1万回唱えてみて下さい。

年間第14主日 マタイ11:25~30  2020年7月5日

   「賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」
 マタイ10章では派遣者イエスが描かれていましたが、11~12章では様々な論争の記事が記されています。イスラエルの人々はイエス様を受け入れるどころか、疑い、しるしをもとめ、ベルゼブルの力を借りる者とおとしめようとする人々さえ現れます。つまり、イスラエルの人々は本当のメシアよりも自分に都合のよいメシアを求めてしまうのです。それゆえに、イエス様に出会いながらイエス様を拒否してしまうという結果になってしまいます。

 今日の福音では、イスラエルの中で小さい人々、すなわちイスラエルの基準では「救われる価値のない、ダメな人々」が、かえってイエス様を受け入れたこと、そして、それは父の御心にかなうことであることがイエス様によって宣言されています。私たちは信仰というと「自分の頭で理解し、自分の判断で神を信じること」と思いがちですが、それは信仰ではなく哲学です。知恵のある者や賢い者は自分に頼り、自分の判断に自信を持ちます。そこに神様の助けは不要なものになってしまいます。それどころか「神」をあやつろうとさえします。

 歴史の中で何人もの人物が「神」になろうとしました。しかし、最期には人間は人間に過ぎないことを証明して死んでゆきました。イエス様の生れた時代のローマ皇帝はアウグストゥスでしたが、その名は「神の如き尊厳を持つ者」という意味をもっていました。確かに当時の全世界に匹敵する大帝国の皇帝でしたが、2000年後の今日では、イエス様の名前を知る人は多くいますが、アウグストゥスの名前を知る人は多くありません。また秦の始皇帝も大帝国を築き、地上の富という富を集め、不老不死の薬を探し求めましたが、それはかないませんでした。彼の築いた万里の長城は無用の長物の代名詞となりました。

 イエス様が当時のイスラエルの人々にメシアとして受け入れられなかったのは、イエス様が王のように栄華を誇るような姿でもなく、どんな敵をも打ち負かす将軍のような姿でもなかったからです。あまりにも平凡な柔和な一人の人間の姿だからでした。「私は柔和で謙遜な者」と訳されていますが、原意は「私は心貧しいものだから」という意味です。この「心の貧しい」には、父なる神さま以外に頼るものをもたないという意味があるのです。イエス様は人々を「休ませてあげよう」と招いておられます。現代の教会の風潮はややもすると「議論、会議、活動」に明け暮れ、イエス様の与えようとする「安らぎ、学び、祈り」を忘れていないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*ほんとうに休みたい時、どこに行きますか? 何をしますか?
*あなたは知恵ある者? それとも幼子のような人?