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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

主の昇天 マタイ28:16~20  2020年5月24日

 最後の晩餐・十字架・復活そして昇天・聖霊降臨は、イエス様の救いの出来事として深いつながりがあります。しかし、各福音書においてそれぞれ強調されるもの、またその表現には違いがあります。

 昇天という出来事はマルコやルカ的な表現であり、他の福音書にはイエス様が天に昇られたという直接的な表現はありません。昇天というとどうしてもイエス様が私たちのいる地上から離れた場所、遠いところに行かれてしまい、私たちとイエス様が遠く離れてしまっているというイメージでとらえてしまうのが、現代の私たちの実感であろうと思います。

 ところが、マルコやルカが昇天という表現を使ったのには、その反対の理由があったのです。

 ヒント①
マタイは昇天について述べず、むしろイエス様は「世の終わりまであなたがたとともにいる」ことを強調しています。
 ヒント②
当時の人々、特にイスラエルの人々にとって「天」は、①神様のおられる世界(つまり、上の方にある)、②私たちが地上のどこにいても、必ず、私たちの上にあるもの、すなわち、いつも私たちとともにあるもの、という意味があるのです。従って、「天におられる神様」にはいつも私たちとともにいて下さる神様という意味があるのです。これは、ヘブライ語の「ハッシャマイーム」(天)ということばに、現代の日本語にはないニュアンスが含まれているからです。

 それゆえ、マタイ28:16~20(今日の福音)が語っていることとルカ的な昇天の出来事は、矛盾するものではないのです。マタイの記事では、弟子たちが全世界に派遣されてゆきますが、自分の力で宣教をするのではなく、目には見えないけれどすでにその人々の中に隠れて働きかけているイエス様と協力しながら、イエス様の弟子たちとなるように働きかけてゆくことが宣教であると知らされているのです。「師と弟子」。これがマタイの宣教の特色です。キリスト者とは、生涯をかけてイエス様に学んでゆく心をもった人のことを示すことばなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*どんな時、イエス様がともにおられることを感じていますか?
*イエス様とどんなことをよく話しますか?

復活節第6主日 ヨハネ14:15~21  2020年5月17日

 復活節の最後の主日は、先週に引き続きヨハネ14章から福音が朗読されます。最後の晩餐の席上で語られたイエス様のことばは、やがて聖霊降臨において実現する大いなる出来事を予告する内容となっています。「あなたがたがわたしを愛し、わたしの掟を守るならば」という条件で、イエス様は3つのことを約束しておられます。第1には「弁護者=真理の霊」がともにいること。第2にはイエス様ご自身がわたしたちの内にいること。第3には「わたしの父はその人を愛し、父とわたしはその人のところに行き、ともに住む」と、父なるお方がわたしたちとともにおられることが約束されるのです(23節)。

 イエス様は「聖母マリアに宿られ、人となること」により、世にご自分の存在を示されましたが、復活によって「信じる人の内に」、すなわちイエス様のことばを信じ、守り、生き、その教えを愛する人の内にイエス様は現存することを約束して下さいました。「しばらくすると世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(19節a)と語り、続いて「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(19節b)とイエス・キリストとわたしたちの間には生命的な絆があることを宣言されているのです。このことは15章の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」というたとえにおいて再び生き生きとした表現で語られ、深められるのです。

 復活されたイエス様に出会いたいのならば、21節がその道を示してくれています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と語られているのです。すなわち、聖母マリアが神のことば=神様の意志を受け入れたように、わたしたちがイエス様のことばを受け入れ、それに生きるならば、マリア様の胎内にイエス様が宿られたようにイエス様はわたしたちとともにおり、その姿、現存を現されるのです。なんと大きな恵み、なんと大きな救い、希望でしょうか! 最後の晩餐の席で、イエス様がこんなに大きな恵みの約束を与えて下さっていますが、弟子たちにはまだわかりません。そのことを弟子たちに示す「真理の霊」が来られるまで、そのことを理解することは出来ません。しかし、弟子たちはイエス様が語られたことばは忘れていません。

【祈り・わかちあいのヒント】
*忘れてはならない「イエス様のことば」は何でしょう?
*これだけは「信じています」と言えるイエス様の教えは何でしょう?

復活節第5主日 ヨハネ14:1~12  2020年5月10日

 復活節の日曜日にはヨハネ福音書が朗読されますが、第5主日のテーマは、イエス様は「道であり、真理であり、命である」というあの最後の晩餐でのお話です。まもなく弟子たちと離れ、父のもとに行こうとなさるイエス様は、彼らに「こころを騒がせてはならない」と語られます。弟子たちはイエス様の受難と死が間近に迫っていることすら悟っていないので、イエス様が何を語られているのかさえもよくわからないという雰囲気です。

 トマスやフィリッポの質問はどこか的はずれな感じがしませんか? しかし、彼らの質問のおかげで、少しずつイエス様が「誰であるか、どのようなお方であるか」が見えてくるのです。「イエス様は道であるお方」です。

 狭い門、けわしい道について、山上の垂訓(マタイ5章)において、述べておられます。道は生き方を示す言葉として、日本語では茶道、華道、書道、剣道といろいろな用例がありますので、わかりやすいと思います。つまり、キリスト教というかわりに「イエス道」ということもできるのです。すなわち、イエス様のように考え、イエス様のように行ない、イエス様のように愛することがイエス様という道を歩くことにつながるのです。

 事実、キリスト者、キリスト教(元来は「キリストの仲間たち」という意味)という名前が誕生する前には、この教えは「この道に従う者たち」と呼ばれていました(使徒行録9:2)。ですから、道という言い方には、その道の上に立っているだけでなく、自分の足でその道を歩んで行こうとする主体性、努力、精進が必要なのです。洗礼さえ受ければ、エスカレーターに乗るように天国に行けるとはイエス様は言っておられません。むしろ、「わたしに従いたいのなら、日々、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われています。

 そのことは、今日の福音の箇所にはっきり記されています。「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる。わたしが父のもとに行くからである」(14:12)。これは、キリスト者全体、カトリック信者10億人が心を一つにして行なえば、確かに大きな業が実現することを意味します。「みなが一つとなるように」……これがキリストのわたしたちに対する望みです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちの今の歩みは「狭くて、けわしい」と感じる道でしょうか?
*今、「キリストの道」のどこを歩いているか、わかりますか?

復活節第4主日 ヨハネ10:1~10  2020年5月3日

 毎年、復活節の第4主日には、ヨハネ福音書の「よき牧者と羊」の箇所が朗読されます。遊牧の民であるイスラエルの人々にはわかりやすいたとえであったと思われます。羊は自分で身を守ることができない弱い動物です。するどい牙や爪ももたず、また速い足を持っているわけでもありません。また自分で餌や水を探すことも苦手であり、いつも群れでいないと生きてゆけません。また、迷子になりやすいところもあるのです。群れの中で母羊とわかれてしまい迷子になっている子羊は、自分で母羊のもとにたどりつけないこともしばしばです。

 このような羊にも一つだけ、長所があります。それは自分の牧者の声だけは聞き分けることができるということ、また牧者の言うことには忠実に従うという点です。夜の間、羊飼いたちは自分の羊を共同の囲いの中に入れます。朝になると1匹ずつ名前を呼び、囲いから連れだし、草のあるところ、水のあるところに導くのです。(詩篇23)

 「羊はその声を知っている」という表現で使われる「知る」ということばは、ただ「知識として知っている」ということ以上に、「愛する」というニュアンスのあることばなのです。「父から聞いたことのすべてをあなたたちに知らせた」とイエス様は弟子たちに告げ、こうして父とあなたがた、イエス様と弟子たちが深い関わりを持つものとなったというニュアンス、すなわち、「知ったからには、そのお方のために何かをせずにはおられない、そのお方の望みを実現するためにいのちをかけて行なってゆくものとなる」ことが自然にうながされてゆくのです。

 イエス様は「よき牧者である」とともに「神の小羊」です。それゆえ、わたしたちキリスト者が羊にたとえられるのは、「牧者であるキリスト」と深く結ばれた人々であることを意味します。また、イエス様と同じく、人々の救いのために過越しのいけにえとして自分自身を捧げることが求められているのです。自分だけは囲いに入っているので安心だというような、自分の救いが満たされればあとの人のことなど知らないというキリスト者はありえないのです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かねばならない」とイエス様は語られています(ヨハネ10:15)。それゆえ、囲いの中にいる羊は、牧者を引きとめてはならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはどのような「羊」でしょうか?
*「囲いの中にいる羊」、「まだ囲いの中にいない羊」、わたしたちはどちら?

復活節第3主日 ルカ24:13~35  2020年4月26日

 復活された主イエス・キリストのご出現のエピソードの中でも、詩情の豊かさにおいてはこのエマオの弟子たちに現われた出来事は出色のものです。「夕暮れのエマオへの道で弟子たちに語られた恵みのみことばをわたしにも聞かせて下さい」という聖歌が聞こえて来るようです。

 仲間たちから離れてゆこうとする二人の弟子たちはもう「墓が空であった」ことを知っていました。しかし、彼らはその出来事が意味することがまだ分からなかったからこそ、仲間たちから離れてゆこうとしたのではないでしょうか? 彼らはイエス様に期待していました。但し、「自分の思っていたようなメシア」の姿を期待していました。そのお方は、こともあろうに十字架で、奇跡の大逆転もなさらず死んでしまわれたのです。彼らは、自分たちの身にも危険がおよぶのではという不安から、仲間たちから離れてゆこうとしたのではないでしょうか? 確かにわたしたち人間は、「自分の思っていたのとは違うこと」が起こるとすぐに絶望したり、価値がないと切り捨ててしまったりします。

 しかし、イエス様はこんな弱い、わがままなわたしたち人間を決して「切り捨てない」のです。力強い歩みでイエス様は二人に近づきます。彼らのとぼとぼとした歩み、ため息まじりのぼそぼそとした話しぶりに対して、イエス様の声はさわやかにひびいたのです。「あなたたちは道々何を話していたのですか?」と、まずイエス様は彼らに話させます。彼らはとまどいながらもすべてを正直に話します。イエス様は彼らに聖書のことばを思い出すようにと語られます。彼らは聖書のことばからも離れていたのです。二人の弟子たちもすでに知っていた聖書のことばですが、「この人が語る」とこれまでなかったほど活き活きとしたメッセージになるのです。心の中に燃え上がり、心の中に清い水が湧き出てくるような気持ちになるのです。それが復活されたキリストの恵みなのです。死の壁を打ち破ったイエス様のエネルギッシュな明るさなのです。このお方の前にはどんな心の暗闇も吹き飛んでしまうのです。

 思わずこの方の熱弁に引き込まれた二人の弟子たちは、「どうか、一緒にお泊りになって下さい。もう日も暮れかかっていますから」と言い出します。もっと聞きたい、もっと知りたい、そんな気持ちになる時、それはキリストがわたしたちにも語りかけている時ではないでしょうか? この二人の弟子たちの祈りに近いことばは、わたしたち教会にとって永遠に暮れることのない日があの復活の日から始まっていることを思い起こさせます。キリストとともに歩む人には夜の闇はもうないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*今、光の中を歩いていますか、それともまだ闇の中を歩いていますか?