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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

受難(枝)の主日 マタイ27:11~54  2020年4月5日

 受難の主日には、2つの福音の箇所が朗読されます。枝の行列の際に朗読されるエルサレム入城の場面(マタイ21:1~11)と受難の朗読(マタイ27:11~54)です。この2つの朗読は、対照的なものです。エルサレムの住民のメシアを迎えての歓呼の声、しかし、それから数日後には同じ民衆が、同じイエス様に対して、「殺せ、十字架につけよ」と叫ぶのです。

 この2つのエピソードはわたしたち人間の根源的な罪の姿を表わしているのです。あの楽園での原罪のエピソードでは、アダムたちが悪魔の誘惑に負けて、「これを食べても死ぬことはありません。かえって目が開けて、神のように見えるようになります」という甘言に負けて、すなわち自分の力で「神になる」ことを望んだことにアダムの原罪の根本原因がありました。

 エルサレムの住民の弱さ、罪、おろかさは、「自分たちの望み通りのメシアではない、自分の都合にあわないメシアなどいらない」とイエス様を拒絶してしまうのです。彼らの望んでいたメシアは、ローマ軍を駆逐し、イスラエルに繁栄をもたらすことを言ってくれるメシア、そして自分たちの望みをかなえるために惜しみなく神通力を発揮してくれるメシアだったのです。

 イエス様はそのような人間の欲望を満たすための「万能のしもべ」ではなく、「主のしもべ」としての生き方を貫かれます。「彼は民の罪を負って、屠所にひかれる子羊のように従順に死に赴かれます」。イエス様はイザヤが預言していた苦しむしもべなのです(イザヤ49:1~9、50:4~11、52:13~53:12)。

 イエス様自身もそのことを表わすために、あの詩篇22のことばを語られました。「エリ、エリ、レマサバクタニ」(わたしの主よ、わたしの主よ、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか)。この言葉は絶望の言葉ではなく、最悪の苦しみの中にあってなおも神への信頼を表明する祈りの詩篇であることはイスラエルの全員が知っていました。百人一首のようにイスラエルの人々は詩篇の全部(150篇)を覚えていましたから。詩篇22の全体を読んでみればそれはすぐにわかります。イエス様の気持ちはただ父なる神に向けられていたから、このおろかな人間の侮辱、喧騒、無理解の中にあっても自分を見失うことはなかったのです。

【祈り・わかちあいのヒント】

  1. 「十字架につけよ!」と叫んだエルサレムの住民をあざけることがわたしたちにできるでしょうか?
  2. なぜ百夫長は「この人はまことに神の子であった」と言ったのでしょうか?

四旬節第5主日 ヨハネ11:1~45  2020年3月29日

 今日の福音朗読は、来週迎える受難の主日の言わば序曲のように感じます。ヨハネ福音書の1章から12章までは「しるしの書」と呼ばれ、イエス様の宣教生活の3年間が「7つのしるし=奇跡」を中心にまとめられており、今日の朗読箇所、「ラザロのよみがえり」はその7番目のしるしです。4つの福音書には3つのよみがえりの奇跡が記されています(ヤイロの娘=マタイ9:18~・マルコ5:21~、ナインのやもめの息子=ルカ7:11~、ラザロ=ヨハネ11:1~)。また使徒行録にはペトロがドルカスという女性をよみがえらせ(使徒行録9:36~)、パウロも窓から落ちた若者をよみがえらせる(使徒行録20:7~)というエピソードが記されています。

 これらのよみがえりのエピソードとラザロのよみがえりのエピソードには「共通する要素」が見出せます。それは「肉体の死」は神様の力の前では「ねむり」に過ぎないという点です。ヨハネ11章11節において、主イエスは「わたしたちの友、ラザロが眠ってしまった。わたしは、彼を起こしにゆく」と述べています。すると弟子たちは病気が快方に向かい、安眠しているのだと思ってしまいます。イエス様はラザロの死について話されたのですが、弟子たちはただ眠りについて話されたのだと思ってしまいます。

 「ラザロのよみがえり」のエピソードが他のよみがえりの奇跡と異なる点は、ラザロの死から4日たっていたことです。他の奇跡は「死の直後」であり、仮死状態であった可能性もあります。そして、これらの奇跡ではイエス様がそのあわれみのゆえに死の苦しみを取り除くというメッセージが中心ですが、ラザロのよみがえりのエピソードでは、「死を打ち破るイエス・キリストとは誰か?」また「そのイエス・キリストをあなたは信じますか?」というキリスト論と信仰者の姿勢が強く表われているのです。イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」とわたしたち一人ひとりに問いかけておられるのです。イエス様の「復活」は単なる「肉体のよみがえり」とは異なるものです。イエス様の復活とは、時間も空間も超えて永遠に生きておられる神の子としての姿を表わすものなのです。永遠に生きて、わたしたちに語りかけ、わたしたちに近づこうとされる復活されたイエス様とわたしたちが出会うためには、「石を取り除かなければ」ならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】

  1. わたしたちとイエス様の出会いを妨げている石はわたしたちの心の中にあるのでは?
  2. イエス様の復活について、わたしが知っていることはどのようなこと?

四旬節第4主日 ヨハネ9:1~41  2020年3月22日

 ヨハネ福音書9章では、ほぼ1章をかけて「生まれつきの盲人のいやし」が語られています。イエス様と弟子たちは神殿の近くでこの生まれつきの盲人と出会いました。弟子たちは当時のユダヤ人の考え方に従って、「この人が生まれついて目が不自由なのは、この人の罪の結果か、それとも先祖の罪の結果か」とイエス様に問い掛けるのです。するとイエス様は、「この人は病気のためにそうなったのであり、病気と罪は関係がない」と言われ、この人の目をいやします。

 唾で土をこね、その人の目に塗り、「シロアムの池に行って、目を洗いなさい」と命じます。これはとても興味深い行ないであり、命令です。イエス様ならただ一言でいやすことも出来るのに、何故、土をこねたのでしょう。これは創世記に記された人間の創造のエピソードを思い起こさせます。

 さらにそれを目に塗り、それから神殿の近くからエルサレムの城壁のはずれにあるシロアムの池までゆくように命じるのです。神殿はエルサレムで最も高いシオンの丘にあります。そこから目の見えない人がシロアムの池にゆくには、人ごみで混雑した街中、しかも坂もあり、狭い道、建て込んだ家々の間を通って、たどり着くまで時間もかかったことだと思います。

 それでも彼は出かけてゆきました。見ず知らずの人が奇妙なことをした上にわずらわしいことを命じるのに、シロアムの池に向かいました。そして、生まれて初めてその目に光が宿ったのです。彼は自分の家に戻ってきました。両親や近所の人々は、彼の身に起こったことに戸惑います。喜びをともにするというより、当惑、さらには疑いを抱き、ファリサイ派の人々のところに連れてゆきます。ファリサイ派の人々は、イエス様のなさったこと、彼の身に起こったことを全く反対の方向で理解します。「安息日にしてはならないことではないか!」とイエス様のなさったことを非難します。イエス様は彼らのこのような行動、言動を「霊的な盲目」と指摘なさいます。

 人間の一つの傾向として、ありのままを受け入れようとせず、自分の都合にかなうことは良いこととし、自分の都合や気持ちに合わないことは拒否したり、非難したり、悪口を言ったりするのです。人をいやす人、傷つける人、私たちのまわりにもいます。そして、私も時にその両方になることがあります……。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私も、見たいと思うものしか見ようとしていないのでは?
*イエス様のなさったことにケチをつけるファリサイ人をどう思いますか?

四旬節第3主日 ヨハネ4:5~42  2020年3月15日

 さて、四旬節も第3週に入ります。これから3つの日曜日にヨハネ福音書が朗読されてゆきます。それらはいずれも有名な箇所です。今日は第4章のサマリアの女性との対話です。ヨハネ福音書の特徴の一つは女性たちの活躍です。

 第2章では聖母マリアがカナの婚礼における最初のしるしと深く関わっており、また第4章のサマリアの女性との対話は、第3章のニコデモとの対話とペアになっている大切な対話です。また第8章の姦淫の女性、第11章のマリアとマルタの兄弟ラザロのよみがえり、第19章の十字架の下に立つ聖母マリア、第20章の復活したイエス様に出会うマグダラのマリアと、様々な女性たちとイエス様の関わりにヨハネは注目しています。

 サマリアの女性とイエス様の対話は何気ないことばで始まります。「水を飲ませて下さい」とイエス様の方から声をかけられます。サマリアの女性はユダヤ人の男性から声をかけられて、いささか当惑、迷惑という気持ちで応えます。イエス様はサマリアの人々、女性だからということでわけへだてをするような方ではありません。このイエス様の一言から対話は始まってゆきます。

 最初はこの女性はイエス様をからかうような調子で応えています。「この井戸は深いのです。あなたは汲むものをもっておられません」「またここに水を汲みにこなくてすむように、その水をください」とイエス様のことばをからかうような口調で応えています。

 ところが、イエス様は深いあわれみのまなざしで、彼女の深く傷ついている魂に触れます。「あなたには5人の夫がいたが今連れ添っている人はあなたの夫ではない」と。彼女は見ず知らずのこの人が何故そのようなことを知っているのか!と驚きます(この部分は朗読箇所からカットされていますが……16節~19節)。この一言からサマリアの女性はイエス様のことを預言者だと思います。イエス様はご自分が預言者以上の者、すなわちメシアであることを言い表します。やがて、この女性は走ってゆき、イエス様のことを町中の人々に告げます。この女性の積極的で果敢な行動により、町の人々の多くがイエス様を信じ、自分たちのところにとどまるように願います。たった一人の女性がイエス様に会った感動、体験をためらわずに語ったゆえに……。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私はどんなことに渇いているでしょうか?
*私は日常生活の中でイエス様に出会っているでしょうか?

四旬節第2主日 マタイ17:1~9  2020年3月8日

 毎年、四旬節の第2主日には、ご変容の箇所が朗読されます。エスドレロン平野の東部にぽつんと立っているタボル山がご変容の行われた山と言われています。今日でもタボル山の頂上にはご変容を記念する教会が建っています。その聖堂の内部の4つの壁にモザイク画が飾られています。そこにはイエス様の4つの姿が描かれています。小羊の姿、ご聖体の姿、十字架の姿、復活の姿だったと思います。

 イエス様が十字架にかかって死ななければならないこと、しかし、3日目に復活することを弟子たちに話されましたが、弟子たちはこれを受けとめることが出来ませんでした。それゆえ、3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登りました。そして、そこで、人の子であるイエス様が「神の子」としての栄光、すなわち十字架の後に現れる復活の栄光の姿をお見せになったのです。その素晴らしさは、ペトロのことばに表れているように「もう、どこにも行きたくない、ここに留まるために家を建てましょう」と言わしめるほどでした。つまりペトロは「これ以上、素晴らしいことはないだろう、わざわざエルサレムで死ななければならないなどということは必要ないのでは?」と思ったのかもしれません。

しかし、雲の中から響いた声は、「これは私の愛する子、これに聞き、従いなさい」という内容でした。このことばは神様の救いの計画が十字架にあることを意味し、イエス様は十字架を負ってご自分の後に従いなさいと命じられています。 このご変容の出来事には大切なメッセージがあります。

  1. イエス様は様々な姿で私たちの前におられる。
  2. 私たちは3人の弟子たちのようにイエス様の素晴らしい栄光の姿を垣間見ることがある。
  3. しかし、私たちはイエス様の素晴らしさの全体をまだ知らない。
  4. それゆえに、私たちはイエス様の声に耳を傾けなければならない。
  5. イエス様が十字架を避けなかったように、私たちも自分の十字架を引き受けなければならない。
  6. イエス様は私たちのいつも1歩先におられる、ここで留まろうとしてはならない。
  7. この栄光を理解するには時間がかかることを忘れてはならない。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私がイエス様に魅かれるのは何故でしょうか?
*私がペトロだったら何を思い、何を語り、何をするでしょうか?

主日の公開ミサ休止のため、毎週配布されていた「関町教会の皆さんへの手紙」はこちらからご覧ください。
PDF 関町教会の皆さんへの手紙 No.671 (PDF)