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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第30主日  マタイ22:34~40  2020年10月25日

    「最も重要な掟とは」

 マタイ福音書の22章では、ヘロデ派、サドカイ派、そしてファリサイ派の人々が次々にイエス様のことばじりを捕らえて、失脚させようと論争を挑んできます。今日は、ファリサイ派の人々の中の一人が「イエスを試そうとして」、ある質問をします。「掟のうち何が最も重要でしょうか?」と。

 このエピソードは、ニュアンスは異なりますがマタイだけでなく、マルコ、ルカ福音書にも記されているもので、3つの福音書が書き記しているのですからとても大切な意味があるということがわかります。マルコ福音書(12:28~34)ではイエス様を試みようという動機での質問ではなく、友好的な対話として語られ、イエス様もこの律法学士を「あなたは神の国から遠くない」と誉めています。ルカ福音書(10:25~28)では、このことを答えているのは律法学士自身であり、イエス様が「それを行いなさい」と答えたところ、彼は「ではわたしの隣人とは誰ですか?」と問いかけ、イエス様が「よきサマリア人のたとえ」を語るというコンテキストです。つまり、永遠の生命をいただくためにこの愛の掟の重大性が語られるのです。

 さて、マタイ福音書に戻って、もう一度、福音書のことばを眺めてみると、マタイではイエス様自身が「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」の掟をはっきりと宣言し、かつ最も重大なこととして、この掟が一つのものであると決定的に宣言なさいます。時として、人間は「神様を愛すること」と「神様が創られた人間を愛すること」を別々のことと理解しがちです。第1の掟と第2の掟はコインの両面のようにどちらかだけということが不可能なものなのです。隣人愛を無視して神様を愛することは不可能ですし、神様を愛すること無しに深い隣人への愛は生まれないからです。律法の細かい規則にはこだわるのに律法の源泉である「見えざる神への愛は見える人間を愛する道をたどること」を忘れてしまいがちなファリサイ派の人々に、強烈なインパクトを与えたことでしょう。イエス様はやがて十字架上でこのことを自らの姿で示されます。すなわち、十字架の横木は人々への愛、十字架の縦木は神様への愛、その愛は一つであり、その真ん中にイエス様の愛の掟があるということです。イエス様は両手を釘付けにされても決して閉ざされることのない愛を示されたのです。イエス様にとっても人々を愛することは血を流すような苦しみを伴うのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「だれがその人の隣人になったか?」とイエス様は問いかけました。
 私たちは誰かのために隣人になっているでしょうか?

年間第29主日  マタイ22:15~21  2020年10月18日

    「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

 さて、今日の福音にはヘロデ派と呼ばれる人々が登場します。ヘロデ王家を支持する人々で、ローマ帝国の支配という現実の中で生きて行かざるを得ないと考え、またヘロデ王のもたらす経済的な繁栄に期待を抱いている人々ですから、現状維持を望む、つまりイスラエルに独立のための武力的な闘争や混乱が起こることをきらう人々です。ヘロデ派から見れば、イエス様は多くの民衆の支持を得ているので、それが暴動などにつながっては困るのです。それゆえ、イエス様の政治についての考え方、現体制に不満を持ち、民衆を扇動するような輩であるかを確認しておきたいという気持ちもあったのでしょう、相いれないはずのファリサイ派の人々がヘロデ派のこの気持ちを利用して、イエス様を陥れようとしてこのような質問をさせたのです。

 もし、イエス様が皇帝に税を納めることを認めなければ、ローマへの反逆を企てる者として訴え、もしローマへの納税を認めればユダヤ民衆の声望を失うことになるだろうと企てているのです。このようなエピソードはマタイ福音書にだけ見られるもので、マタイ福音書がユダヤ人からキリスト者に改宗した人々を対象に書かれているものであることを考えると、この底意地の悪さ、イエス様への嫌悪がどれほどのものであるか、想像がつきます。ユダヤ人は何故ここまでイエス様を嫌ったのでしょうか? これは一つの謎かもしれません。しかし、今日にも同じようなことは起りうるのです。それが人間の世界なのだということを忘れてはならないと、マタイは伝えたかったのかもしれません。

 イエス様の答えは明快です。イエス様はお金にも政治にも関わろうとはしていません。イエス様にとって関心事は父なる神様のみなのです。この地上のことは人間が作り出した秩序です。その秩序が神の御心にかなうものでなく、ある人間の利益のためだけに作られたもの、すなわち人々の幸せにつながるものでないのならば、いつかそのようなゆがんだ秩序は無に帰らされていくのです。2000年前には神にも等しく絶対に思われたローマ皇帝の権力も、今日は存在していません。しかし、キリストの教えは2000年たった今日も、世界全体に大きな影響を与え続けているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが持っているもので神様につながっているもの、永遠の価値のあるもの、どの時代、どの人々にも通用するものはなんでしょうか?

年間第28主日  マタイ22:1~14  2020年10月11日

   「招いておいた人たちはふさわしくなかった」

 マタイ福音書のたとえ話は「神の国」がテーマとなっているものが多いのがその特徴です。また、婚礼に関するたとえ話もマタイの特徴です(マタイ25:1~13「十人のおとめ」のたとえ)。今日もその一つが語られています。ある王が王子のために婚礼の宴を開きます。そして招いていた人々に使いを出して、それを告げ知らせます。

 それなのに招待された人々は断ります。王様からの招待であり、婚礼の宴という、当時のイスラエルの習慣からすれば決して断ることが出来ないものであるにもかかわらず、考えられないような簡単な理由から断ってしまいます。同じたとえ話を扱っているルカはその理由を、「畑を買ったから見に行くために」、「牛のつがいを買ったから試すために」、「妻を娶ったばかりだから」と具体的に挙げていますが、これらの理由はささいなこと、緊急を要するものではないこと、理由にならない言い訳にすぎないことを意味しています。

 マタイのたとえ話に出てくる招待客はもっと露骨に無視し、さらには家来を捕まえて殺してしまいます。婚礼の宴に招かれながら行かないということは、そもそも敵であることを意味しているのかもしれません。そこで、王はその人々を滅ぼし、今度は通りかかる人々を片端から婚礼に連れてくるように命じます。いきなり、婚礼の宴に誘うということはいささか乱暴なやり方ですが、とにかく誘われた人にとってはたいへん幸運なことです。善人でも悪人でも区別なく声がかけられ、それにともかくも「はい」と答えた人たちが行くのです。

 さらにたとえ話は続きます。王は婚礼の客をみようとやってきますが、婚礼に招かれた客の中に礼服を着ていない人がいました。私たちからすれば、通りすがりにいきなり声をかけられて、ここに無理やり連れてこられたのだから礼服など着てこられるはずがないと考えるかもしれません。しかし、王宮の入口で礼服を配っていたのにそれをあえて着ないでいるのか、それとも通りで招待された時に配られた礼服を売り払ってしまったのか、とにかく、この人は言い訳できずに「黙っている」のです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*このたとえ話は「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」ということばでしめくくられます。私たちが招かれたこの共同体の集いにおいて私たちが身に着けるべきものは……何でしょうか?

年間第27主日  マタイ21:33~43  2020年10月4日

   「もう一つのたとえを聞きなさい」

 秋は実りの季節です。ミサの聖書朗読箇所もこのところ「信仰の実り」についてのたとえ話が続いております。さて、今日のたとえ話では、ぶどう園を貸した主人が収穫の時を迎え、それを貸しておいた農夫たちのところにしもべを送り、その収穫を受け取ろうとした時に、こともあろうにそれを借りた農夫たちが収穫を惜しんで、送られてきたしもべたちをひどい目にあわせ、さらには交渉に来た息子を殺して、ぶどう園そのものを奪おうとします。

 考えられないほど強欲な農夫たちです。これは、やがてイエス様を拒み、「そんなメシアならいらない」と、自分たちの都合にあわない、考えがことなるイエス様を十字架にかけて殺してしまう祭司長たち、長老たちに向けられているたとえ話です。その結末は「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(21:43)のです。

 最初に送られたしもべたちはバビロン捕囚の前の、次に送られたしもべたちは捕囚期後の預言者たちを表わしていると思われます。そして最後に送られた息子とはイエス様自身を示すものなのです。3回におよぶ交渉はいずれも一方的な農夫たち(イスラエル)の恣意によって拒絶されてしまいます。

 さて、このような農夫たちの勝手気ままな、自己中心的なやり方がゆるされるはずはありません。やがて、この農夫たちは実りどころか、ぶどう園で働くことも、さらには自分たちの生活の術(すべ)、自分たちの命をも失うことになるのです。神様が一番嫌いなものは「傲慢」ではないでしょうか? 神様さえも利用しようとする態度、自分の思い通りにするために他の人々を犠牲にすることを厭わず、どんな手段を用いてもかまわないというような恐ろしいやり方です。私たち自身の生き方を見直してみる時、ここまで非道なことはしていないまでも、やはり「傲慢」ということ、あるいは「高慢」ということは全く無いと言えばそれこそ、「傲慢」の罪に陥っていることになります。

 「傲慢」や「高慢」の罪には一つの特徴があります。それは「人を傷つけることば」に表われます。自分が絶対に正しいと思っている人は他の人の意見や気持ちを受け入れる余裕がないために「拒絶・拒否」という心が閉ざされた冷たさをただよわせてしまいます。その結果、やがて本当の自分に対しても心を閉ざしてしまい、自分自身が何をしているかわからなくなってしまうのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私の人生、才能、持ち物は神様から借りているぶどう園では?
*私たちが捧げるべき収穫は誰のもの?

年間第26主日 マタイ21:28~32  2020年9月27日

   「兄と弟」
 先週のぶどう園で働く労働者のたとえに引き続き、今週も「ぶどう園に向かう兄と弟」が登場するたとえ話がイエス様によって語られます。父から「今日はぶどう園に行って働きなさい」と言われた兄弟が、兄は「いやです」と答えながらも「考え直して」出かけてゆきます。反対に「はい、わかりました」と答えた弟は行きませんでした。

 このたとえ話を読むと兼好法師の『徒然草』の中に出てくるエピソードを思い出します。ある人が、都の人にものを頼むと「はい、はい」と返事は良いのに実際にはやってくれず、坂東(田舎)の人にものを頼むと、はっきり断られることもあるが引きうけたことは本当にやってくれる、都の人が不誠実に思えると兼好法師に訴えるのですが、兼好法師はこう答えます。坂東の人は心が強いので、良し悪しをはっきり言葉にできるが、都の人は心がやさしいので、「頼まれたのだからやってあげなければ」という思いが先に働いてしまい、しかし、出来ないということもあるので、最初からだますつもりでそのように答えているのではないのですよ、と。

 この兄と弟のたとえ話のポイントは二人の心の動きにあります。たしかに弟の心には「はい」という気持ちはあったのでしょうが、最終的には「自分の都合」を中心にしてしまいました。反対に兄は「いやです」という気持ちがあったのですが、「父の気持ち」に気がついて、父のために自分をゆずりました。福音書にはこのたとえ話と同じテーマが時々出てきます。「主よ、主よと叫ぶ者が神の国に入るのではない、ただ主の御心を行なう者だけが神の国に入るのである」ということがはっきりと述べられています。知識や理解・同情のレベルではなく「行ない」のレベルが要求されているのです。

 このたとえ話の中心は「父のために考え直す」というところです。すなわち自分中心ではなく「父」を中心に気持ちを動かしたという「行ない」が大切なのです。この兄一人がぶどう園に行って働いたからと言ってどれほどの手助けになったかはわかりません。弟一人がさぼったからと言ってどれほどの損害が生じたとも思えません。ぶどう園に行ってどれくらい働いたかではなく「父」を自分より優先するという行ない(自己譲渡)が大切だったのです。イエス様はいつも天の父に自分を譲り渡しておられたお方です。それゆえ、父の望みとして、御自分を十字架上に譲り渡したのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「はい」と言いながら、やらずに放り出してしまっていることは何ですか?