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幼きイエスの聖テレジアの生涯

主任司祭 バルトロメオ 稲川保明

序文

 わずか24歳で世を去った一人の修道女の生涯は「テレジアはリジューのカルメル会に入会し、修道生活を送って帰天した」ということ以外、追悼録に書きようがないのではと仲間の修道女が語ったほど、目立つような出来事のない生涯でした。テレジアの修道生活は他の修道女と比べても特別なものには見えなかったのです。それが何故、シエナの聖カタリナ、アビラの聖テレジアとならび女性の教会博士として称号が贈られるほどになったのでしょうか?
 人間の目には小さな生涯ですが、彼女の自叙伝『ある霊魂の物語』は何十ヶ国語にも翻訳され、死後50年間に彼女に関する神学上の研究書も800種を超えると言われ、今日も増え続けています。カトリックの著作物が出版されることの少ない日本においてもテレジアに関しては特別に多く、またそれだけ多く読まれています。そして、女性が選ぶ洗礼名でも抜群の人気度です。

誕生

 1873年1月2日、フランス北部ノルマンディー地方にある静かな町アランソンに、マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンは生まれました。父ルイ・マルタンは時計商を営み、母マリー・ゲランもアランソンレースの名手で、しかも父母とも若い頃はともに修道生活を送ることを望んでおり、生まれてきた子どもたち全員が修道会に入ることを希望していたほど信仰深い家族でした(この両親の願いはなんと実現しているのです)。
 テレジア(フランス語の発音でテレーズですが、日本ではテレジアの表記、発音で知られていますので、ここでもテレジアと呼びます)はマルタン家の9番目の子どもでした。テレジアが生まれた時には2人の兄と2人の姉が幼くして帰天しており、5人姉妹の末っ子として育ちます。青い目にブロンドの巻き毛、早熟な知恵と記憶力、豊かな想像力に恵まれ、活気にあふれた少女でした。

母の死

 1877年8月28日、テレジアが4歳の時、母はガンによって亡くなり、一家はリジューの町に引っ越します。アランソンの町には、亡くなった妻であり母であるマリー・ゲランの思い出が多すぎること、リジューには母の弟であるイシドール・ゲランの一家がいることから移住を決意しました。
 この母の死はテレジアの性向を大きく変えてしまう出来事でした。極度に内向的で、感じやすくなり、涙を流すこともたびたびあり、テレジア自身も「いちばん苦しい時期」が4歳から14歳まで続くことになります。そのつらい時期に支えとなってくれたのは姉ポリーヌでした。長女のマリーはセリーヌのお母さん役をつとめ、次女のポリーヌがテレジアのお母さん役をつとめることになったのです。

姉ポリーヌの入会

 1882年10月2日、テレジアの心を引き裂く出来事が起こります。それは「小さいママ」と慕っていた姉のポリーヌが彼女を残してカルメル会に入会したのです。それは後日テレジアが述懐しているように「ポリーヌが修道院に入ってからの苦しみに比べると、前には何の苦しみもなかった」というほど大きな悲しみとなってテレジアを苦しめ、激しい頭痛と震えの発作に襲われるようになりました。
 姉ポリーヌがカルメル会に入会してから5ヶ月経った頃、テレジアの病気は危険な兆候を示すほどになりました。気を失ったり、うわごとを言ったり、幻覚症状を起こしたり、姉たちを見分けることも出来なくなったりするほど病状が悪化したのです。ところが1883年5月13日、聖母マリアの像が生き生きとし、テレジアにほほえみかけられたのです。そしてテレジアは奇跡的な治癒を経験するのです(この聖母のご像は、後にカルメル会でのテレジアの病床にも飾られ、「ほほえみの聖母」と呼ばれ、とても若々しく美しいマリア様の姿です)。

初聖体・堅信を受ける、そして14歳の クリスマスの日に

 1884年5月8日、テレジアは初聖体を受けます。この「生涯でいちばん美しい日」に先立って3ヶ月の間、テレジアは熱心に準備に励みました。姉であり、小さなママであったポリーヌが作ってくれた小さな本を使って一生懸命準備し、この3ヶ月の間に2774以上の愛の実践を行ったのです。また長姉マリーは、毎晩「深い教えを雄弁に」話し、どんな大罪人もこのような教えを聞けば、心を打たれて天国を求めるに違いないと思うほど感激し、「神様のこと、人生のこと、永遠のこと」を考えているうちに「すべての日々の中でも、もっとも美しい日」が来るという実感に変わってゆきました。人々を愛するが故にご自分をパンの形にして「食べられ」、養われるキリストの愛をテレジアは体験したのでした。テレジアはあまりにも幸福だったので、喜びの涙にくれ、彼女の涙を見て、友達も周りの人もびっくりしてしまいました。「天国のすべての喜びが心の中に流れ込んだため、涙を流さずには、それに耐えられなかったのだということが、みなにはわからなかったのです」とテレジアは述べています。その数週間後、6月14日、テレジアは堅信の秘跡を受け、一人前のキリスト者になったのです。しかし、長女マリーのカルメル会の入会、仲良しのセリーヌの学校卒業により、一人で学校に行けず病気になり、13歳になってもささいなことで「マグダレナのように泣いていた」と後年告白しています。
 14歳になった1886年のクリスマスを迎え、父と姉セリーヌとともにミサに与って聖体拝領をして、家に帰ったテレジアにあの苦しみと涙の時期が去ったことが実感されます。そして、来年のクリスマスにはカルメル会に入会しようと心に決めたのです。

入会までの道のり

 1887年5月29日、聖霊降臨祭の日に、テレジアは父にカルメル会に入りたいという希望を打ち明けます(それは庭でのことでした。今でもその時の二人の姿を像にしたものがその場に飾られています)。父は年若い娘が切々と語ることばを聞いて、神のみ旨をすぐに読み取りました。
 次に14歳半の少女は叔父ゲラン氏に入会のゆるしを求めました。最初は反対した叔父でしたが、姉である亡くなったテレジアの母が「生まれてきた子どもたちの全員を修道会に入れたい」と望んでいたことを思い出したのでしょうか、「お前は神さまが摘み取りたいと望まれる小さな花だ」と認めてくれました。
 そして、カルメル会の修道女たちは喜んで共同体に受け入れようとしていました。しかし、男子カルメル会の院長であったドゥラトロエット師は猛烈に反対し、「彼女が21歳になるまで父親のもとにいなさい」と断言しました。父と娘は出かけて行き、面会しましたが、ドゥラトロエット師の態度は変わりませんでした。しかし、彼はこうも言いました。「私は司教様の代理にすぎないのですから、もし司教様が入会を許されるならば、それまでです」と。
 1887年10月31日、テレジアと父はウゴナン司教様に会うために汽車でバイウの町に出かけて行きました。司教様は父娘を温かく迎えてくれましたが、カルメル会の院長が反対しているのでは許可は与えられないと答えましたが、「私は教皇様の代理に過ぎません。ですから教皇様がお許しになればそれまでです」と。
 それから3週間後の1887年11月20日、テレジアは教皇レオ13世の足もとにひざまずいていました。教皇レオ13世の司祭叙階金祝を祝う年でした。
 「教皇様、大きなお願いがございます」とテレジアは大胆にも教皇へ直接、15歳でカルメル会に入会する許しを求めました。教皇は「よろしい。わが子よ。長上の言われるようになさい」と答えました。するとテレジアは「教皇様が一言、よろしいと仰せになれば誰もが皆、承知なさいます」と懇願したのです。教皇レオ13世は彼女をじっと見つめながら「そう…そう…、神様のみ旨ならば、必ず入るでしょう」と答えてくれました。そばにいたお付きの人たちはテレジアが直接教皇様に話しかけていると知り、あわててたしなめました。お付きの人たちが力ずくでテレジアを教皇の足もとから離そうとした時、教皇様はテレジアのくちびるに手をおいて祝福して下さいました。
 教皇様はウナゴン司教様に手紙を送りました。「あなたの教区にいる若い女性が修道会への入会を望んでいるとのこと、しかし、私はあなたの判断に委ねます。よろしく」と。ウナゴン司教様はカルメル会の院長に手紙を書きました。「リジューの町にいる少女がカルメル会への入会を望んでいます。しかし、私はあなたの判断に委ねます。よろしく」と。その返事は、1888年1月1日にテレジアのもとにカルメル会の院長様から届きました。それはちょうど15歳になる誕生の前の日の出来事でした。そして、1888年4月9日、水色の服を着て、金髪を肩まで下ろした15歳の少女は父と腕を組んで「カルメル山に登るために」出かけたのです。

入会 修練 初誓願

 1888年4月9日、テレジアの願いはかなえられ、当時教会の中でも厳しい修道会に数えられていたリジューのカルメル会に入会しました。この修道院という特殊な生活様式をもつ囲いの中で、テレジアは幼子の完全な信頼と委託のうちにイエス様が教えて下さった「小さな道(こみち)」、「愛に満ちた希望の道」を歩み続けてゆきます。
 1889年1月10日の着衣式の日からテレジアは、「尊い面影と幼いイエスのスール・テレーズ」とサインします。この尊い面影の信心は、テレジアが12歳の時から始まり、修道生活を貫いて続いてゆきます。「あなたの面影はただ一つの富。私はそれ以上何を望みましょう。み顔の中に絶えず隠れていれば、私はあなたに似てくるでしょう」と。1889年9月8日(マリア様の誕生の祝日)、テレジアは初誓願宣立の日を迎え、修道名を幼きイエスのテレーズとしました。

修練長の補佐役として

 1893年3月、修練長の補佐役を依頼されたテレジアは、この任務が自分の能力を超えるものであることを悟り、信頼を込めて空の手を神に差し伸べ、修練者たちと接してゆきます。愛の実践、誠実さ、忍耐、温和、ありのままであること……。
 1895年1月頃、テレジアはジャンヌ・ダルクに扮して、幼いころから抱いていた殉教への激しいまでの思いを演じます(後のことですが1944年5月3日、テレジアはジャンヌ・ダルクとともにフランスの保護の聖人とされます)。「愛に死ぬ、それは甘美な殉教、私はそれを忍びたい」
 1895年6月9日、より近くからキリストにすべてをささげる日々の中で、テレジアは愛の苦しみを和らげ、神を喜ばせるため、信頼のうちに「神のいつくしみの愛」にいけにえとして身を捧げます。

最初の喀血から帰天まで

 1896年4月3日、聖金曜日、床に就き、ランプを消すとまもなく、最初の喀血が襲いました。次の晩も再び喀血しました。テレジアはこの兆候に心をおどらせました。まもなく天国で主にまみえるという希望が与えられたからです。そして、その時から死を迎える時まで、信仰の試練、深い暗闇が続くことになります。「イエス様は私の魂が言い表せないほどの暗闇に包まれ、あれほど甘美であった天国の思いが、もはや戦いと苦悩の種でしかなくなることをお許しになったのです」
 1896年の夏の間、テレジアの病状は小康状態を保っていましたが、冬の訪れとともに再びせき込むようになり、脇腹に激痛が起こり、日に日に衰弱してゆきました。
 1897年7月には昼夜を分かたず喀血が続き、テレジアの衰弱は極度に達し、病室へ運ばれます。そして7月30日に病者の塗油を受けました。8月17日、医師はテレジアの両肺が破壊されており、あと数日しか生きられないであろうと告げました。8月19日、テレジアは最後の聖体拝領を戴きました。
 9月に入ると、病気の苦しみはいっそう激しいものになりました。壊疽が腸を侵食し、やせ細った体には大きな床ずれが広がっていました。
 9月30日の午後7時ごろ、テレジアは言いました。「院長様、まだ臨終ではありませんか?」。院長は答えました。「そうです。わが娘よ。臨終です。けれども神様は、もしかしたらもう数時間お延ばしになるおつもりかもしれません」。テレジアは勇気をもって答えました。「それならそうなりますように。私は苦しみが早く終わるのを望みません……」。それから彼女は、自分の十字架を見つめながら言いました。「おお!私は主を愛します! …神様!…私は…あなたを愛します!」。この言葉を言い終わるやいなや、突然、彼女は頭を右に傾けて静かに倒れ、これですべてが終わったかのように思えました。
 しかし、テレジアは神秘的な声に呼ばれたかのように身を起こしました。彼女の顔にはもはや病気の苦しみは見られず、天上的な喜びに輝いていました。テレジアは生き生きとしたまなざしで、ほほえみの聖母像の少し上をじっと見ていました。彼女の感嘆したようなまなざしは、生命と愛の火にあふれていました。テレジアは、あこがれていた天国を見つめていたのです。
 この世との絆は断たれました。1897年9月30日、午後7時20分でした。彼女は眼を閉じていましたが、その姿は美しく、口元に浮かんだほほえみは、「神様は、愛とあわれみそのものでいらっしゃいます」と語っているようでした。

栄光への道

 テレジアは臨終の迫った頃、病床でなぞのような不思議なことを言いました。「私はやさしい神様に愛だけをささげました。愛でおこたえ下さるでしょう。私は、この世の人たちを助けながら、天国で過ごしましょう。天国からバラの雨をふらせましょう」と。カルメル会の修道院の中にひっそりと咲いていた小さな花は、神様の手で大切に天国に移されました。いつまでもかおりをはなって咲き続けるようにと。テレジアの遺体はたくさんの花に囲まれて聖堂に置かれました。長い病気を耐え忍んだ顔にはやすらかなほほえみが浮かんでいました。
 どこからともなく、テレジアの死を伝え聞いたリジューの町の人々がテレジアにお別れのあいさつのためにやって来て、長い行列を作りました。有名な人物でもなく、世の中で大きな偉業を行ったわけでもないのに、そして、神様だけに知られることに満足して、人々の目からは隠れ、忘れられて一生を過ごしたはずなのに、神様のお望みでいつの間にか人々の心から、決して忘れられない花になっていたのです。神様の大きな愛に身を任せて、喜んですべてをささげた小さな花は、どんなに神様のお気に入りなのかということが人々にもわかったのです。
 男の人も女の人も、大人も子ども、老人も兵隊も病人も学者も、金持ちも貧しい人もみんなテレジアに祈りました。「私たちのために神様にお願いして下さい」と心からテレジアに助けを求めた人々はすぐに返事を受け取りました。突然、病気が治ったり、目が見えるようになったり、歩けるようになったり、神様を信じられないで苦しんでいた人が神様を信じるようになったり、このような数えきれない不思議こそ、「天国からバラの雨をふらせましょう」と言ったテレジアの約束の実現でした。そしてバラの雨は今もふり続いています。

 テレジアの帰天から1年後、1898年9月30日に、自叙伝『ある霊魂の物語』初版2000部が発行され、カルメル会内部に配られました。しかし翌年には重版が出され、15年後には35ヶ国語に翻訳され100万部が読まれるほどになりました。1899年にはテレジアの取り次ぎを求めて巡礼が始まるようになりました。
 1923年4月29日、教皇ピオ11世はテレジアを列福しました。リジューのカルメル会には毎日、800~1000通もの手紙が全世界から届き、テレジアの取り次ぎを願うようになりました。それから2年後、1925年年5月17日、教皇ピオ11世は列福からわずか2年でテレジアを列聖しました。さらに1927年12月14日には、教皇ピオ11世はテレジアを聖フランシスコ・ザビエルとともに宣教の保護の聖人としました。
 1929年9月30日、テレジアの帰天から32年後にあたるこの日、リジューにテレジアのバジリカの建設が始まりました。そして、1937年7月11日、のちに教皇ピオ12世となるパチェリ枢機卿の司式により、バジリカの献堂式が行われました。1944年5月3日、テレジアは聖ジャンヌ・ダルクとともにフランスの保護の聖人となりました。
 1992年、カルメル会ならびフランス司教団は、テレジアを教会博士とするための申請書を教皇ヨハネ・パウロ2世に提出しました。それから5年後、1997年10月19日、テレジアの帰天から100年目にあたり、教皇ヨハネ・パウロ2世はテレジアに教会博士の称号を与えました。そのことを伝える使徒的書簡の名は「神の愛の学問」です。