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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第33主日 マルコ13:24~32  2018年11月18日

「いちじくの木から教えを学びなさい」

 年間主日も今日が最後となり、来週は1年の典礼暦を締めくくる王であるキリストの祭日が祝われ、翌週からはC年の待降節となり、また新しい典礼暦が始まります。今日の福音はマルコ福音書の13章が朗読されます。この13章は聖書学者たちによって「マルコの小黙示」と呼ばれることがあります。

 エルサレムに入城したイエス様に最期の時が近づいています。神殿に来た弟子たちがその神殿の見事な建築を褒め称えていると、イエス様がエルサレムの将来について語りだします。イエス様の言葉はやがて、西暦70年、ローマ皇帝ティトゥスによるエルサレム陥落となって実現します。エルサレムの神殿が崩壊してしまったことは初代教会にとって二重の意味を持つことになりました。一つは、旧約の時代の完全な終わりであるということ、もう一つは、神様の臨在はエルサレムの神殿に限られるものではなく、復活したイエス様の共同体、すなわち教会にあるという確信が深められたことです。今日の朗読箇所はそれに続くもので、世の終わりの時のありさまが黙示文学的な表現で語られています。天変地異や戦乱、災害はいつの時代にも起こるものであり、そのような絶望的な災いにより終末がおとずれるのではないかと考えられることもありますが、しかし、ここで大切なのは、それが世の終わりではないこと、世の終わりとは、すなわち破壊の時ではなく、救いの完成の時であるということを理解することなのです。

 イエス様ははっきりと言われています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と。御子さえも惜しまれずこの世に遣わされた御父が、人間を滅ぼすためではなく、救うために世を完成されることへの信頼を失わないようにと、イエス様は強調されているのです。さらに、この世の完成の時がいつであるかについては父なる神様に委ねられていることなのです。

 それゆえに、その終わりの時を知らない私たちはいちじくの木の教えから学ぶことが大切なのです。それは「時のしるし」を読み取ることです。世の終わり、救いの完成の時は、「今」という時間の積み重ねの中に始まっていることなのです。今という時を有意義に生きる人でなければ、その時を迎えると平静さを失ってしまうのです。「すべてに時がある」と伝道の書(新共同訳聖書「コヘレトの言葉」3章)は語っていますが、私たちに生まれてきた時があるように、私たちがこの世から離れる時も必ずやってくるのです。しかし、それは「人の子」が近づいている時であることを決して忘れてはならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはどのようなことが「時のしるし」だと思いますか?

年間第32主日 マルコ12:38~44  2018年11月11日

「この人はだれよりも多くを入れた」

 今日の福音朗読はマルコ福音書の12章からです。エルサレムの神殿の境内においてイエス様は話しておられます。ファリサイ人や律法学者たちの欺瞞と真実について語られたその直後に小さな出来事がありました。それはイエス様以外の人々には目に触れることのないようなささやかな、しかしイエス様にとっては重要な出来事でした。

 エルサレムの神殿には毎日、数多くの人々がやってきます。そして自分の願い事をかなえて戴こうといけにえを捧げたり、献金をしたり、毎日が日本で言えば初詣の時のような混雑です。現代の私たちには分かりにくいことですが、多くの献金をする人々のためにはラッパが吹き鳴らされたり、その行為が人々の目を引くように演出されていました。まさかそんなことをと思うかもしれませんが、今でも日本のお祭りなどの寄付金が金額入りで掲示されたり、ということを考えると、今も昔も変わらないことであるのかもしれません。ヨーロッパの教会でもパトロンになったメディチ家の紋章が教会の天井を飾っていたり、絵画の中に聖人にまざってパトロンが描かれていたり、また現代の日本の教会でも教会の聖堂の建築に当たって寄付をしてくれた人々の名簿を壁に飾っていたり……人間の名誉欲には限りがないようです。

 お釈迦様の物語にも貧者の一灯というエピソードがありますが、イエス様は貧しいやもめが近づいてきて、恥ずかしそうに、献金をそっと投げ入れた姿を見て、弟子たちを呼び集められました。「見なさい。このやもめは誰よりも多くを入れた」と。弟子たちの中には「たった2レプタなのに」と思っていた人もいたかもしれません。しかし、イエス様は叫ぶように、宣言するように語られます。「他の人は有り余っている中でその一部を入れたに過ぎない。このやもめはもっているすべてを捧げた」と。この献金を入れたやもめ自身さえも「こんなわずかなもので申し訳ありません」という気持ちだったと思います。しかしイエス様は見落としません。その人の本当の気持ちとその人の行いを知っています。神様により頼むほかすべを持たない人の叫びや願いを最優先される父なる神の御心をイエス様は語られます。「知恵ある人、賢い人には隠し、これらの人々、幼子に示されること、これが父の御心である」と宣言されています。私たちは何を捧げますか、私たちはどんな心でそれを捧げていますか? イエス様は私たちについてなんと言われるのでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*持っているものすべてを差し出してもよいと思えるのは、どんな時、何のため、誰のためでしょうか?

年間第31主日 マルコ12:28b~34  2018年11月4日

「あなたは神の国から遠くない」

 今日の福音朗読はマルコ福音書の12章からです。エルサレムに来られてから、ファリサイ人やサドカイ派、ヘロデ党の人々などがイエス様をおとしめようと様々な議論を仕掛けてきます。マルコ福音書にはそのような議論・論争に関して4つのエピソードを取り上げていますが、今日の箇所は他の人々のような悪意に満ちた論争ではなく、神様の教えの真髄を理解している1人の律法学者とイエス様の受け答えがとても興味深く思われます。

 旧約聖書の律法と呼ばれる掟は613もあり、またその一つ一つが、細則や実施にあたっての施行規則というように次から次へと細分化されてゆき、とても複雑でわかりにくいものになっていました。それゆえ、日常生活においても「これは律法や掟に適うものか、反するものか?」ということについて、ラビや長老たちの意見や指導に従わなければなりませんでした。その反動として、「要するに律法とは?」あるいは「律法の中で最も大切な掟は?」と、全律法の真髄を求める傾向がありました。しかし、律法や掟のどれ一つもゆるがせには出来ないはず、と考え、「どの掟が最も重要であるか?」についても意見は様々だったようです。

 イエス様の答えはあっけないほど明確です。「神を愛しなさい」と。この答えはイスラエルの人々が毎朝唱えていた祈りのことばなのです(申命記6:4以下参照)。イエス様の答えはもう一つの掟も同じ重さであると宣言します。隣人を愛することも全律法の精神を表すものなのです(レビ19:18)。イエス様は古い律法の文言を組み合わせることによって、この「もっとも重要な掟は一つの掟の両面であり、新約の時代の掟となる」ことを指摘しているのです。質問した律法学者は、ユダヤ人を代表する信仰者でありながら、新約の信仰を受け入れ始めているように見える態度です。彼は「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することはどんな献げ物やいけにえよりも優れています」とイエス様の意図を正しく受け止めています。それゆえ、イエス様も「あなたは神の国から遠くない」と彼を認めています。しかし、このイエス様の答えにはもうひとひねりがあるのでは? とも思います。「神の国から遠くない」状態にとどまらず神の国に入るためには、「その理解していることを行うこと」が必要なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちはどのようなことを議論していますか?
*正しいとは思うけれどもなかなか実行できないことはなんですか?

年間第30主日 マルコ10:46~52  2018年10月28日

「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

 今日の主日にはマルコ福音書の10章に記されているエリコでの奇跡のエピソードが朗読されます。エリコはヨシュア記2~6章に記されているように、イスラエルの先祖たちがヨルダン川を渡り、約束の地に入り最初に得た町です。昔も今も交通の要衝の地でした。ヨルダン川にそって南北に移動する人々がここからエルサレムへと方向を変えていく、大きな交差点のような町でした。そして、この町ではイエス様と収税人の頭ザアカイの出会い、イエス様と盲人バルテマイの出会いがあり、イエス様に出会ったこの2人の人物はこれまでの人生とこれからの人生が大きく変わるのです。2人ともなかなかイエス様に近づくことができません。それでもあきらめずにバルテマイは叫び声を上げ、民衆に叱られてもなりふり構わず求め続けます。ザアカイもまた民衆に笑われても木によじ登ってイエス様の姿を捜し求め続けます。やがてイエス様の方から声をかけて下さいます。

 バルテマイは上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところに近づいてきます。この当時の物乞いは上着に大きなポケットのような袋を縫いつけており、喜捨物やお金を戴いていました。この上着を脱ぎ捨てるという行為はバルテマイがすでに「自分の目をイエス様に癒していただける」という確信を持っていたことを表わしていると思います。イエス様は信仰をもって自分を求める人を決してお見捨てにならないことを、バルテマイはエリコを通り過ぎる人々の話から感じ取っていたのです。エリコの住民たちもイエス様のうわさは聞いていましたが、バルテマイのような信仰の確信はもっていませんでした。だから初めはバルテマイを叱りつけ、黙らせようとしていたのです。ところがイエス様の「その人をつれて来なさい」という一言によって、エリコの住民の心が変わります。

 原語では「タルーセイ」(ギリシャ語:元気を出しなさい。よかったね。さあ今こそ……というような励ましの言葉)と記されています。エリコの住民の閉ざされていた心がイエス様の一言で変わったのです。これこそが奇跡ではないでしょうか? バルテマイの目が見えるようになることも奇跡ですが、人々の心が一言でバルテマイに対するやさしさや共感、励ましへと変わったのです。目が見えるようになったバルテマイはイエス様の後に従って歩みだしました。イエス様のもう一つの名は「人生をともに歩む師であり、友であるお方」なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちはバルテマイよりもイエス様について知っていることは多いのではないでしょうか? それなのに何故?

年間第29主日 マルコ10:35~45  2018年10月21日

「あなたがたは、わたしの飲む杯を飲むことが出来るか?」

 今日の福音は、イエスさまの3回目の受難予告のすぐ後に続くエピソードです。ゼベダイの子らの見当違いな願いをきっかけに、教会を成立させる本質が「仕えること」であるとイエスさまは教えられます。

 マタイ福音書では、ゼベダイの子らの母が息子たちのために願いを発していますが、マルコ福音書では直接、2人が願い事を持ち出しています。最初の受難予告ではペトロの信仰が称えられ、また首位性が約束されていますが、3回目の受難の予告を聞いたにもかかわらず、今度は、ペトロとならび称されるあの2人の兄弟が、あいかわらずイエスさまがメシアであることを地上における王のようになることと受け止めており、右大臣・左大臣のポストを約束して下さいと願っております。しかもその願い方はかなり露骨で、直接的です。

 「わたしたちがお願いすることをかなえて下さい」とは、先週の金持ちの青年の態度と比較してもかなり、自己中心的な響きがあります。この2人はかつてペトロとともにイエスさまの変容の栄光を目撃しているだけに(しかも、この変容のことはイエスさまから話してはならないと口止めされているだけに)、受難についても、モーゼやエリヤを従えるこの御方に絶対に敗北はないと確信していたのかもしれません。この願いに対してイエスさまは「栄光」よりも「栄光に至る道」つまり「苦しみ」について語ります。それが「杯と洗礼」という表現で表わされています。旧約聖書では「杯」はしばしば「苦しみ」を意味します(詩篇75:9、イザヤ51:17~22、エレミヤ25:15、エゼキエル23:31~34)。洗礼も「水の中に沈む」という意味でしばしば非常に大きな苦難の体験を表わしています(詩篇42:8、69:2,15、イザヤ43:2、ルカ12:50も参照)。

 イエスさまは低くされることを喜べと教えられます。仕えることに喜びがあると教えられます。このことがわからないとキリストの教えが理解できないと思います。そのことを実践できた人がわたしたちの時代にもいます。それがマザーテレサです。彼女ほど単純に、澄み切った心でこのことを喜んで受け入れた人はいないかもしれません。ゼベダイの子らの願いは自己実現を求めていますが、イエスさまは御父の望みを実現することを望んでいるのです。キリストに従う、キリストを信じるのは自分の願いをかなえてもらうためではありません。そのことがわかってもあなたはキリスト者でありつづけますか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*つらい時でも苦しい時でも信じていますか? それとも……