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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第19主日 ヨハネ6:41~51  2018年8月12日

    「つぶやき合うのはやめなさい」
 ヨハネ福音書6章の主要な部分が5週にわたって朗読されています。今日はその3番目の部分です。今日のテーマは「民のつぶやき」です。ぶつぶつと文句を言う、あるいは正面から疑問や意見を表明するのではなく、裏に回って不平不満を並べるということは、わたしたち人間の世界にはよくある出来事です。

 旧約聖書にも、特に出エジプト記の荒れ野の旅の間、イスラエルの先祖たちは「砂漠で水がない」、「マンナのような歯ごたえのない食べ物に飽きてしまった」、「肉が食べたい」など様々なつぶやき、不平を漏らしています。神様はその度にモーセに命じて、彼らの飢えや渇きを満たしています。しかし、イスラエルの先祖たちが、約束の地に住むカナン人たちが強大なことをおそれ、「エジプトに引き返した方がましだ」とエジプトを脱出してきたことの根本的な目的を忘れ、神様がなさろうとしておられる救いの計画とは反対の方向に向かおうとした時は、神様は彼らを厳しく罰することを厭いませんでした。(参考箇所:民数記13:1~14:38)

 さて、イエス様の時代にもカファルナウムの人々はつぶやき始めました。「これはヨセフの息子のイエスではないか、どうして今、天から降って来たというのか」と。彼らには「地上のこと、地上の世界」がすべてであったので「天のこと、天から来られた」イエス様のことが理解できなかったのです。この世界を誰しもが見ているのに、この世界を創られ、わたしたちを生かして下さっている神様のみ心に対してはなかなか理解しようとしないのです。カファルナウムの人々の不信仰の理由は2つありました。その第一は「自分たちの知識がすべてである」という驕りから学びの姿勢を失っていたこと、第二は「自分の都合、思い通りに神様がしてくれない」からということなのです。荒れ野で先祖たちがつぶやいた理由も、カファルナウムの人々がイエス様を受け入れようとしなかった理由も同じです。同じ理由で21世紀に生きているわたしたちがイエス様を、父なる神を受け入れようとしないのでしたら、カファルナウムの人々の不信仰と同じ結果に陥るのです。イエス様は「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」と語り、ご自分の真の姿を示されます。イエス様という道を歩んで父なる神のもとにたどりつく者だけが永遠の命に生かされるのです。その意味でイエス様はこの地上の旅路を歩むための糧なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが知っているイエス様の姿、その教え、それが本当にイエス様の姿、教えのすべてであると言えるでしょうか?

年間第18主日 ヨハネ6:24~35  2018年8月5日

     「しるしを見たからではなく……」
 5000人の群衆にパンを与えた大きなしるしのあと、カファルナウムでのイエス様の長い説教が始まります。しかし、このイエス様の説教は信じる人と信じない人を分けるという結末に終わるのです(年間第21主日 ヨハネ福音書6:60~69)。それはイエス様の説教の冒頭のことばに暗示されています。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ福音書6:26)と。

 しるしとは「イエス様」のことなのです。イエス様こそ、父なる神の見えるしるし、神様の愛の見える姿なのです。しかし、多くの人にとって、イエス様は「すぐれた預言者かもしれないが」、「ナザレの人で、大工の子ではないか」、「わたしたちが幼いころから知っているあの人だ」と自分たちの見ている姿にとらわれてしまい、イエス様の真の姿、真の意味を受けとめようとしていないのです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とイエス様は教えておられます。このイエス様のことばは、「イエス様が神様から遣わされたお方であるということは、神様の恵みなしには理解することも信じることもできないことだ」という意味ではないか? と思います。

 カファルナウムの人々はさらに「イエス様を信じるため」に条件を出します。「あなたはどんなしるしを行ってくださいますか?」、「わたしたちの先祖は荒れ野でマンナを食べました」と。このことばは「あなたが神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうか?」という荒れ野での誘惑のことばを思い出させます。条件を出し、それがかなえられたら信じてもよいという態度は信仰ではなく取り引きなのです。それは「人間が生まれてくることも神から与えられた恵みであることを忘れている」状態なのです。そして、この与えられた生命を自分のものだと考えてしまう人間が、死を迎える時、その生命が終わることに怯えるのは、「自分のものなのに取り上げられてしまう」と思っているからなのではないでしょうか? むしろ、人間として折角この世に生まれながら、人生の意味も見出せず生きることの虚しさをこそおそれるべきであり、イエス様はその意味で「決して飢え渇くことのないパン」として、わたしたち人間の心を満たす生き方を教えて下さる真の教師なのです。「イエス様は、天からのまことのパン、世に命を与えるパン」なのです。イエス様の存在とその教えなしには、「神様の愛」の意味や姿を、見ることも信じることもできないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが働くのは朽ちる食べ物のため、それとも永遠の命に至る食べ物のため?

年間第17主日 ヨハネ6:1~15  2018年7月29日

 今年は典礼暦年がB年にあたりますため、年間第17主日から年間第21主日までの間、福音は、ヨハネ福音書の6章を5つの主日にわたって朗読します。イエス様はナザレ訪問の後から、ご自分の神秘である「神の子メシア」であることを少しずつ語り始めます。マルコ福音書の6章から8章にかけてパンを増やす奇跡が2度語られ、さらにパン種、パンの残りなど18回もパンに関する記述が出てきます。聖書学者がマルコ6~8章を「パンの段落」と名づけるほどです。さて、典礼暦年ではこのマルコが重要視しているテーマを深めるために、「ヨハネの聖体論」とも呼ばれるヨハネ6章が5週にわたって朗読されます。それほどヨハネの6章は豊かで、深遠な内容をもっています。

 四福音書が必ず記すイエス様の大きな奇跡、しるしのエピソードですが、ヨハネ福音書は、他の福音書よりさらに詳細なところに目を注いでいます。まずこの大きなしるしがイエス様のイニシアチブによって行なわれていることです。他の福音書では弟子たちが群衆の心配をしはじめて、「もう3日も一緒です。そろそろ解散させてはどうでしょうか? そうすればめいめい、村や町に行ってパンを手にすることが出来るでしょう」とイエス様に話しかけていますが、ヨハネではイエス様ご自身が弟子たちに問いかけることから始まっています。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買ってくればよいだろうか」と。弟子たちはイエス様に問いかけられて、何とかしなくてはと知恵をしぼります。

 フィリポは、自分たちの貯えを全部持ち出しても足りないでしょうと途方にくれます。アンデレはとにかく今、パンがどれほどあるのか、人々の間を探し回ります。ようやく5つの大麦のパンと2匹の魚をもっている少年と出会い、イエス様のところに連れて行きます。この徒労にも見える弟子たちの努力や素直に大麦のパンを差し出す姿こそ、イエス様の待っておられたことではないでしょうか? 人間の力だけでは解決できません。しかし、神様は人間の努力を「無力、無意味なもの」とはなさらず、彼らの努力の上にこそ、恵みを注がれたのです。この少年はどうして、5つの大麦のパン(貧しい庶民のシンボル)をもっていたのでしょうか? このパンの背後に、このパンを持たせてイエス様の話を聞きに行かせた少年の母親、家族の姿が思い浮かんで来ます。イエス様はそのような小さな、しかし行き届いた心遣いを喜んで受け入れ、祝福し、分かち与えるのです。みんなが家族のように思えば、この世は変わるのです!

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちがイエス様に差し出すことのできるものはなんでしょうか?

年間第16主日 マルコ6:30~34  2018年7月22日

 先週の福音朗読において、イエス様は弟子たちを二人ずつ組にして、宣教のため遣わされました。今週はその続きです。弟子たちは使命を果たしてイエス様のところに戻って、自分たちが行なったことや教えたことを残らず報告しました。この弟子たちの行ないは大切な教訓を含んでいます。

 ①第一の宣教者はイエス様であること。ルカ福音書10:17~20には「あなたの名前によって命ずると悪霊さえ従います」と報告しているように、弟子たちの行なったこと、教えたことは、イエス様とつながっているからこそ、可能なことだったのです。

 ②宣教には「分かち合い」が必要なこと。弟子たちは違う村や町へと出かけてゆきました。それぞれの弟子はイエス様に報告するとともに、自分たちがどのように行なったか、互いの経験を語り合いました。務めは種々に分かたれていても、それぞれが不可欠な役割であり、みなが力をあわせてこそ、宣教が成り立つのです。逆に言えば、宣教がうまく行かないときは、皆の心が一つになっていないときなのです。

 ③宣教活動を支えるためには祈りが必要です。イエス様は帰ってきた弟子たちに「人里はなれたところに行って、しばらく休むがよい」と呼びかけられています。「Ora et Labora」(祈り かつ 働け)はキリスト教生活のモットーとなっていますが、イエス様ご自身がこれをもっとも行なっておられました。

 こうして、弟子たちはイエス様とともに荒れ野(人里はなれたところ)に向かいます。しかし、そこでもまたイエス様と弟子たちは働くことになるのです。「ところが、多くの人々は彼らが出かけてゆくのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」と。イエス様と弟子たちが舟から上がるとイエス様はまたもや彼らに話し始められます。

 弟子たちはそのことについて、群衆やイエス様に不平や不満をもらしてはいません。彼らの体は疲れていたかもしれませんが、心は疲れていません。私たちの信仰生活にも不調なときがあるかもしれません。それは「心が疲れてしまっているとき」なのではないでしょうか? イエス様が見えないとき、感じられないときこそ、心が疲れてしまっているときなのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはキリスト教を知らない人とキリストの教えについて話したことがありますか? そのとき、その人はどのように受けとめましたか?

年間第15主日 マルコ6:7~13  2018年7月15日

 イエス様は宣教活動の最初から、弟子たちを呼び集め、ご自身の教えを間近なところで学ばせ、寝食をともにし、福音のための働き手を育てて行きました。今日の福音書において、イエス様はその弟子たちをいわば「教育実習」のように派遣して行きます。

 イエス様のこの弟子たちの派遣の特徴は、次のとおりです。①「二人ずつ組にして」派遣され、②杖とサンダル以外は何も持たず、③悪霊に打ち勝つ権能を与えられたこと、④迎え入れてくれる家にはとどまり、⑤受け入れられなければ「足の裏のちりを払う」こと。⑥弟子たちは出かけて行き、悔い改めさせるために宣教し、⑦悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたこと。

  1. 「二人ずつ組にして」:イエス様は宣教活動が共同体の協力の下に行なわれるものであることを示唆しています。仏陀が弟子を遣わす時と好対照です。
  2. 杖とサンダルはモーセの姿、エルサレムの神殿を訪れる巡礼者のシンボルと重なります。宣教とは、すでに行く先の人々の心の中に働きかけておられる神様と出会うためという姿勢が大切なのです。
  3. 悪霊に打ち勝つ権能:人々や世の中を支配している悪しき考え、慣習や制度、さらには妄想、風評、偏見というような「この世が是としているけれど間違っているもの」に対して、神の愛、神の望む世界(神の義)を実現するための力が弟子たちに与えられたのです。
  4. 「迎え入れてくれる家」:行く先にはかならず神を信じ、神様からの働きかけを待っている人々がいることを暗示しています。
  5. 「足の裏のちりを払う」:受け入れない人々に対しては神様もその人々を受け入れてくださらないことを示す預言的な行為です。ルカ10章11節には類似箇所に「わたしたちの足についているこの町のちりさえも払って、あなたたちに残そう。しかし、神の国が近づいたことは知っておくがよい」と述べるようにイエス様は語られています。
  6. 弟子たちの宣教は「悔い改めさせる」ための宣教と語られています。悔い改めとは単なる改悛ではなく、新しい生き方への方向転換の意味での回心です。
  7. 悪霊を追い出し、油を塗って病人をいやす。初代教会の活動を暗示する使徒たちの働きです。悪霊とは社会にはびこる悪例、悪癖、慣習、社会の病、病気とは人間を苦しめるものの象徴です。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが人生の旅路において、携えるべき「杖とサンダル」とは、何でしょうか?