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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第24主日  ルカ15:1~10  2019年9月15日

 今日の福音朗読はルカ15章からです。この章では「福音の中の福音」と呼ばれる有名な3つのたとえ話が語られています。聖書学者は、このルカ15章がエレミヤ31章と深い関連があると解説しています。エレミヤ31章は、旧約聖書において明確に「新しい契約」について預言されている箇所なのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると主が言われる……わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す。こうしてわたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。旧き契約においては神の掟は石の板に記されました。イスラエルの祖先はそれを忘れたり、心に留めずに神様に背くような行いをしてしまいました。新しい契約においては、神様の掟は心に記されるものとなります。目で見る文字や耳で聞くことばは忘れ去られることがあっても、心に染み透り、心に記された神様の愛とその教えは、決して消え去ることがありません。こうしてイエス様は父なる神の望み、新しい契約を打ち立てるために、モーセ以上の仲介者として、新しい契約の犠牲の子羊として、神様と神の民の間に立てられた唯一の大祭司としてご自分を捧げ、この新しい契約を成就させるのです。

 ルカ15章は「神の限りないあわれみ」が一貫したテーマとなっており、その3つのたとえをとおして、人間の常識からすれば考えられない「神様の愛の基準」が語られています。99匹の羊を置いてまでも迷った1匹の羊を捜しに行く牧者の姿、1枚の銀貨を捜し出すまで決してあきらめない女性、そして息子がどんな姿で帰ってきても受け入れる父親の姿などは、人間の常識の尺度では受け入れられないほどの寛容さ、深さ、広さ、高さを感じます。このたとえ話にいささかでも不満を感じるのは、私たちが無意識のうちに「迷った羊ではない立場」・「わがまま勝手をして帰ってきた息子ではない立場」からこのたとえを聞いているからではないでしょうか? そういう迷惑をかける羊や息子になったことがない!というのは本当でしょうか? 神様は天の高みから私たちを眺めていると思いがちですが、実はそうではなく、この地上で私たちと一緒に成長してゆきたいと望んで御子であるキリストをこの世に送られたのです。迷いやすい羊である私たちと歩みをともにして下さるキリスト、わがままを言い、勝手な行いで迷惑をかけてしまう私たちに近づいて、「あなたは誰とともにこの人生を生きたいのか? 自分のやりたいことをすることが本当に幸せなことなのか?」といつも私たちの心に語りかけて下さるのがあのイエス様なのです。人間の考える愛にはいつも限界や限度がつきまといます。しかし、神様の愛には限界がありません。いつもいつも私たちを包み込む、大きな大きな愛なのです。小さい人間の心ではなかなか理解できないほどのものなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*大き過ぎて目に入らないもの、当たり前過ぎて気がつきにくいものは?

年間第23主日  ルカ14:25~33  2019年9月8日

 今日の福音は、自分の後について来る大勢の人々に言われたことばです。単なる一時的な熱狂からではなく、十分に考慮した上で、イエス様に対する信仰と愛から自分のすべてを奉献しながら弟子になるようにとの勧めで、そのために2つのたとえをお話しになります。

 最初に、弟子になるための覚悟について語ります。第一に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」、第二に、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない」。
「父母兄弟姉妹」というような「自然的」な絆以上に「超自然的」な絆(神様の恵みと人間の意志的な努力が必要)を求められているのです。さらには、イエス様に従うということは「自分の救いのためではない」ということが大切なことです。自分の救いは「神の計画の中に含まれている」という確信をもっているからこそ、自分の命を顧みることなく、イエス様に従ってゆこうとする。そのレベルの決意が求められているのです。つまり信仰は、自分の望みを実現するためではなく、もっと大きな、イエス様つまり父なる神様の望みを実現することを望むことなのです。

 さて、このあとに、塔を建てようとする人のたとえと1万の兵を率いて戦おうとする王のたとえが続きます。この2つのたとえに共通することばを探してみて下さい。それは「腰をすえて」ということばです。日本語でも「じっくりと冷静に、本気で」というようなニュアンスのことばです。私たちは毎日いろいろなことを考えていますが、そのほとんどは日常的な些細なことや生活のこと、自分のやりたいことなどではないでしょうか? 今、私たちが「腰をすえて」考えなければならないことは何でしょうか? 意外なことに、私たち人間は「本当にじっくりと考えておかなければならない」ことから逃げていることもあるのです。「考えるのもめんどうだ」「考えても始まらない」「考えてもよい答えが出てこない」……私たちの人生の「最重要課題」は何でしょうか? 私たちの生きてきた人生を一言で語るとすれば、「これだ!」と言えるものは何でしょうか? 平凡な人間である私たちの場合、それは何か特別な事業や業績ではないかもしれません。でも「この人は本当に、家族を愛し、友人を愛し、神様とともに一生懸命生きた人だ」と言ってもらえれば、それは偉大な人生の一つだと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの人生の「最重要課題」はどんなことでしょうか? そのために何をしているでしょうか?

年間第22主日  ルカ14:1、7~14  2019年9月1日

 今日の朗読のテーマは、神様から招かれた人のとるべき態度です。それは「謙遜」という一語に要約されますが、聖書の言う「謙遜」とは単なる謙譲の徳ではなく、人間全体に関わる根源的なもので、「神の前における人間自身の身の持しかた」だと言われています。(高橋重幸師『主日の聖書』より)

 イエス様は食事の席でいろいろお話をする場面が、福音書の中に度々登場します。当時のイスラエルの人々の習慣について、まずお話ししてみますと、当時のイスラエルの人々は普段の日は1日に2食であったようです。日本でもおやつということばに残っているように、八つ時(今の午後2時ごろ)に朝食と夕食の合間に食べ物を摂っている様子を興味深く記している『枕草子』の一節を読んだことがあります。イスラエルでは、安息日には3食摂ることになっていました。特に会堂での礼拝が終わってからの昼食は盛大な食事でした。これは神様が天地創造から7日目を安息日とされたことを記念し、神様とともに生きることの豊かさを表わすものでした。したがっていろいろな人々が招待され、招待されることは、兄弟姉妹、家族同様、親しい友人であることを表わすものでした。

 イエス様はこのような食事の席に招待され、そこで様々な教えを説かれました。徴税人であったレビ(マタイ)の家に招待された時、ファリサイ人は弟子たちに文句を言っています。「あなたたちの先生は罪人たちとともに食事をしている」と。するとイエス様は答えられます。「医者を必要とするのは病人である、それと同じく私が来たのは正しい人を救うためではなく罪人を救うためである」と。イエス様は招いてくれる人が誰であるかにはこだわりません。今日はファリサイ派の議員というかなり身分の高い人物の招待でした。このような人の招待ですから、招待されてやってくる人々も同じように名士たちなのでしょう。イエス様はその人々が上席を選ぶ様子を見ていて語り始められました。「宴会や食事の席に招かれたら上席を選んではならない」と。

 これは単なる謙譲の美徳の勧めではありません。日本でも上席を譲り合ってなかなか席につかないでいる様子をみることがあります。ああいうところだとお互い席を譲り合ってなかなか着席しないのに、電車やバスの中ではお年寄りが来ようが、赤ちゃんを連れた人が来ようが席を譲らないのは何故でしょうか? イエス様の言いたかったことは謙譲の美徳の勧めではなく、私たち人間はいつも神様の前に立っていることを忘れてはならないということではないでしょうか? 他人の目はあれだけ気にするのに神様のまなざしはどうして気にしないのでしょうか? 神様が喜ぶのは「周りの人々に対する思いやりの心を持っていること」ではないでしょうか? ところでどうして聖堂の一番前の席はいつもなかなか座る人がいないのでしょうか? 聖堂内のどの席も神様から見れば同じなのに。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは神様に会える時、どの席に座りたいですか?

年間第21主日  ルカ13:22~30  2019年8月25日

 今日の福音も、エルサレムに向かう旅、すなわち弟子たちの信仰教育を行なうイエス様のことばが語られています。「救われる人は少ないのですか?」という質問は、当時の人々が特に興味を持って論じていたテーマと言われています。黙示録の中にも「救われる人は14万4千人」(黙7:4~9)と記されていますが、これは文字通りの人数ではなく、新しいイスラエル12部族の2乗に千をかけた数であり、イエス様を信じるすべての人々を象徴する数字と言われています。つまり、救われることを望む人にはイエス様に従う生き方・信仰が求められているということなのです。

 イエス様は議論のための議論に時間を費やすよりも「今の時を生かしなさい」ということを強調されています。マタイでは「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13~14)と語られていますが、ルカでは「狭い戸口から入るように努めなさい」という表現になっています。狭い戸口とは、その家の中では祝宴が行なわれているからといって誰でも自由に入れるわけではなく、招かれた人、ふさわしい人しか入れないことを意味します。家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは入れないのです。その人々は抗弁します。「私たちはかつてあなたとご一緒に食べたり飲んだりしました」と語っていますが主人は聞き入れません。

 このたとえは私たちにも問いかけているように思えます。かつて洗礼を受けたからではなく、今、その洗礼の恵みを生かしているか、かつてはよく祈ったからではなく、今、誰のため、何のために祈っているか、かつてはよく奉仕したからではなく、今、目の前にいる人のために何をしているかが問われているのです。かつて叙階を受けたからではなく、今、その叙階の使命を果たしているかが問われているのです。かつて結婚したからではなく、今、その結婚の誓いを実現するように努めているかが問われているのです。

 私たちはしばしば「キリスト者である」ことに安住してしまい、「キリスト者であり続ける」ための努力、すなわち学び、祈り、奉仕するということについて関心を失ってしまいがちなのです。イエス様は弟子たちを見て、彼らが弟子であることに安住してしまうことなく、弟子として日々、学び、祈り、奉仕することに努めなさいと呼びかけています。「外へ投げ出され、他の人々が東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」といわれているように、招かれていながら、今、その招きにこたえるにふさわしい生き方をしていないと、神の国への入り口、戸口を私たち自身が狭くしてしまうのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*信仰は過去何をしてきたかではなく、今、何をしているかが問われるのです。

年間第20主日  ルカ12:49~53  2019年8月18日

 先週の福音に続く箇所ですが、イエス様の厳しいことばが語られています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである……私には受けなければならない洗礼がある」。イエス様は御父から送られた最後の預言者としての使命を自覚しておられるのです。また「受けなければならない洗礼」とはゼベダイの子らの願いに対して「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか?」(マルコ10:38)と問われていることでわかるように、受難・十字架の苦難を示すものです。「洗礼」とは水に沈められることを意味し、「死」の象徴であるとともに「新たな生命」への誕生を意味します。

 イエス様のことばがここまで厳しいのは、イエス様にとって受難・十字架は決して避けては通れない道であり、御父の望みを果たすためにはこのような苦難の道のりを引き受けるという決断がなされていたことを表わしています。このイエス様を信じるということは、単なる心の中の思いだけで済むものではなく、「私に従いたいのなら、自分の十字架を負って日々、私についてくるがよい」(ルカ9:23)とのことばのとおり、イエス様と同じ道に招かれているということです。思想として、哲学としてイエス様の考えを受け止めるだけでは、信仰者ではありえません。イエス様と同じ生き方を受け入れることが私たちの受けた「洗礼」の意味なのです。12人の弟子たちはその覚悟を持っていたはずです。しかし、実際の十字架の場面ではみな逃げ出してしまいました。あのペトロですら、イエス様のことを「知らない、関係がない」と否認してしまいました。イエス様はそれでもペトロたち12人を罰したり、叱りつけたりすることはありません。「心は熱していても肉体は弱い」ことをイエス様は知っておられるのです。ペトロたちがイエス様と同じ十字架・苦難の道を歩むことが出来るようになったのは、イエス様の十字架・復活の後のことです。

 信仰には、「狭き門、けわしき道」をあえて選び、そして実際に苦労しながら歩まない限り理解することが出来ない面があるのです。しかし、その苦労も信仰によって戴く神様の大きな愛、信頼、安心、喜びに比べれば、小さなものに過ぎないのです。ペトロは湖の上を歩いてイエス様のところに近づきたいと願ったにもかかわらず、仲間の乗る舟から離れ、まだイエス様のそばに到達するまでは少し距離があるところで、自分の足元の波や水におびえてしまい、イエス様から目を離したその時、水の中に沈んでしまいました(マタイ14:22~33)。信仰の要諦は「イエス様から目を離さないこと」なのです。もう一度、イエス様についてゆくか、私たちも決断を新たにしなければなりません。「主よ、あなたをおいてどこに行きしょう」と私たちがミサの中で答えているのはただのことばだけはないはずです。ならば私たちの生き方は変わるはずなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは何をイエス様にお願いしたいですか?