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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第2主日 ヨハネ2:1~11  2019年1月20日

 降誕節が終わってから四旬節が始まるまでの間、主の洗礼の祝日から年間と呼ばれる日曜日が数回続きます。年間と呼ばれる主日には、イエス様の公生活、すなわち宣教の活動の一場面が朗読されてゆきます。さて、今日の福音は、C年ですがルカ福音書ではなくヨハネ福音書から朗読が行われます。それはヨハネ福音書のみが記しているカナの婚礼での出来事です。ヨハネ福音書の1~12章は、「しるしの書」と呼ばれるように、イエス様の「7つのしるし物語」を中心として、イエス様が誰であるか、またそのイエス様を信じることとはどのようなことであるか、ということを意味深く展開してゆきます。

カナの婚礼には、イエス様を知るためのいろいろな手がかりやしるしが残されています。

  1. 「3日目に」とは?(3日目に起こった大いなる出来事とは?)
  2. 「イエスの母がそこにいた」とは?(イエスの母はあの十字架のもとにもいたのでは?)
  3. 「婚礼」とは?(婚礼と男女の出会い、愛による生活、イエス様は神様と人間を出会わせ、愛によって結びつけるためにやって来られたのでは?)
  4. 「婦人よ」という呼びかけは?(あの十字架のもとでくりかえされることばでは?)
  5. 「この人の言う通り、何でもして下さい」という母の言葉は?(私たちに求められている信仰の姿勢では?)
  6. しもべたちの行ったことは?(水を汲むという単純な労働の繰り返しだが?)
  7. 「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」という世話役の驚き? (最初はこんなことと思うことがやがて……神様らしいやり方では?)

 ヨハネは、私たちがイエス様と今日出会うために「確かな」手がかり=しるしを残してくれているのです。それゆえ、そのしるしを手がかりにして生きているイエス様を探すことこそ、私たち信仰者に必要な態度、心構えなのです。

 ヨハネにとって信仰とは「受動的なもの」ではなく、しもべたちのように実際に汗を流し、時間と手間をかけてイエス様とともに働く中で「やがて気がつくこと」なのです。「このお方だ! これをなさったのは!」と。イエス様は人間の努力、協力を求めています。私たち人間だけの力では、水=この現実の世界をブドウ酒=人々を喜ばせる世界には出来ません。しもべたちの努力の上にご自分の力によって祝福される時、水という単純なものがブドウ酒という人々を喜ばせるものに変えられたのです。私たちはまだ水を汲んでいません。あるいは水を汲むことに飽きてしまっているのでは……

【祈り・わかちあいのヒント】
*6つの石のかめとは何のことでしょうか?(私たちの働くべき日は何日?)

主の洗礼  ルカ3:15~16,21~22  2019年1月13日

 今日は「主の洗礼」の祝日です。それは年間第1主日とも呼ばれる日曜日です。4つの福音書ともイエス様が洗礼をお受けになったこと、そしてその洗礼から救い主としての活動を開始されたことが語られています。しかし、4つの福音書の記述にはそれぞれ特徴があります。ルカ福音書にはイエス様の洗礼について、いつ、どのようにということや、マタイ福音書のように「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と語った洗礼者ヨハネとの対話などについては記されていません。

 むしろ「民が皆洗礼を受けていたころ、イエスも洗礼をお受けになった」ことが淡々とした調子で語られています。このような示し方によって、イエス様の洗礼が私たち人間との一致のため、友となり、仲間となり、家族となるためのものであることを表したのはルカらしい強調の仕方です。さらにはヨハネ福音書のように、「天が開け、聖霊が目に見える鳩のような姿で、イエスの上に降ったことを見た」のが洗礼者ヨハネであるとも記していません。ルカは誰がこのことを見たかを記していません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声は誰が聞いたのでしょうか? このルカの不思議な記述方法によって、イエス様の洗礼の時に現れた聖霊、天から響いた声は、あらゆる人の洗礼の時にイエス様によって、その人がイエス様と同じ意味での「愛する子、心に適う者」とされることを意味するのだということが示されています。洗礼者ヨハネが行っていた「水」の洗礼、すなわち「メシア(救い主)をお迎えするための清め」の洗礼が今、イエス様の洗礼によって、キリスト教的な意味を持った洗礼となります。すなわち「聖霊と火」によって授けられる洗礼、人々を「神の愛する子、心に適う者」とする洗礼が始まったのです。

 私たちが聖堂に入る時に聖水に指先を浸し、父と子と聖霊のみ名を称えつつ十字の印をするのは、私たちが受けた洗礼のことを思い起こすためなのです。私たちがミサで信仰宣言を行うのは、私たちが洗礼によってイエス様の道、すなわち十字架と復活をともに歩む決意を確認するためなのです。今日、私たちが神様に愛される子として、心に適う者として生きるために、イエス様のように神様を父と呼びながら祈り、イエス様が愛したように愛することが出来るようにとイエス様のことばと教えから学ぶのです。そしてイエス様がご自身をパンの姿でお与えになったように、私たちも私たちの持っている物、時間、人生を与え合うのです。洗礼は過去にあった出来事であるとともに、今日、イエス様に従ってゆく決意を新しくするものなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*今日、洗礼を受けた気持ちで新たに、何かを始めてみませんか?

主の公現  マタイ2:1~12(毎年共通)  2019年1月6日

 今年の最初の日曜日は「主の公現」の祭日です。東方教会では今でも「主の降誕」以上に全人類の救い主が全世界に示された祭日として盛大に祝われています。主イエス・キリストがお生まれになった夜、最初に救い主にお会いする大きな恵みを戴いたのは、ベトレヘムの野原にいた羊飼いたちでした。彼らはイスラエルを代表する人々となります。王や貴族、学者や身分の高い人たち、金持ちではなく、イエス様と同じく家ではなく荒れ野に暮らしている人々、貧しい暮らしをしているこの羊飼いたちが第一にイスラエルの救い主となるお方と出会うことが神様らしいなさり方です。この幼子はやがてイスラエルを導く牧者となる方です。マタイ福音書はミカ預言書の一節(ミカ5:2)を引用して語ります。「ユダの地、ベトレヘムよ、お前はユダの指導者の中で、決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民、イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:6)

 この預言のことばは、今度は東方からやって来た3人の博士を幼子イエス様に引き合わせる手がかりとなります。星に導かれ、聖書のことばによってイエス様と出会うことが出来るのです。この3人の博士の礼拝の様子を描いた絵画を見ますと、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大大陸の代表者として描かれたり、青年・壮年・老年という人生の3世代を表す姿で描かれたりしています。いずれにせよ、イエス様はイスラエルという唯一つの民族のための救い主としてではなく、「万民の救い主」としてこの世に来られたお方であるということが、この3人の来訪と礼拝によって示されるのです。このエピソードを伝えているのはマタイ福音書だけです。そこに博士の人数は記されていませんが、黄金・没薬・乳香を捧げたため3人とされています。この3つの贈り物はそれぞれ、キリストの王権(黄金)、キリストの神性(乳香:神殿で焚かれる香)、キリストの死・葬り(没薬)を象徴するシンボルとされています。

 このエピソードで印象的なことは博士たちを導いた星の話です。星という字は「日+生」が組み合わさって出来ています。つまり、生まれた日という意味があるのです。私たち人間が、「このような運命の星の下に生まれた」とか、「なくなった人は夜空の星の1つになる」といつの時代も考えていることは不思議です。イエス様の生まれた時に輝いた星は、私たちにイエス様が人類を家族とするためにお生まれになったこと、神様がつくられたこの世界を一新し、一致させるために第2のアダムとしてお生まれになったことを示すのではないでしょうか? それゆえにイエス様への捧げ物は、「黄金のように朽ちることのない愛」、「苦しみの炎の中から立ち上る乳香のような希望」、「死を超えて永遠の命へと飛躍させる没薬のような信仰」なのではないでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*今年1年、私たちはどのような信・望・愛をイエス様に捧げることが出来るでしょうか?

聖家族 ルカ 2:41~52  2018年12月30日

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」

 毎年、クリスマスを祝った直後の日曜日には「聖家族」の祝日が祝われます。「幼子」として誕生したイエス様が「家族」の中で成長されたことは、私たち人類にとって大切な意味があります。いつの時代にあっても、どんな文化においても「家族」を大切にすることなしに人間の社会は成り立たないということなのです。さて、今日のミサの第1朗読 預言者サムエルの誕生と福音朗読には深いつながりが感じられます。少年サムエルは育って行き、主にも人々にも愛されたこと、やがてサムエルは主のことばの1つさえも地に落とさなかったと言われる偉大な預言者となります(Ⅰサムエル記3:19~21)。ルカはこのサムエルの生涯とイエス様の生涯を重ねて見せているように思います。

 しかし、ルカは福音書においての最初のイエス様のことばとして不思議なことばを記しています。3日間、母であるマリア様、ヨゼフ様の目の前から姿が見えなかったという出来事の後で語った「わたしが父の家にいることは当然なことです」というイエス様のことばは、やがて実現する「受難の神秘」、「十字架という道を通しての復活」を暗示するものです。この出来事が過越祭の時であったこと、両親にはこのことばの意味がわからなかったこと、それは、墓で天使たちがイエス様の復活について婦人たちに告げた時、婦人たちにはそのことばの意味がわからなかったことなどを思い出させます。

 これらすべてはやがてこのエルサレムで起こる出来事なのです。当時のイスラエルでは13歳で大人の仲間入りと考えられていましたから、12歳という幼年期の最後にイエス様がすでにご自分の使命が何であるかを知っておられたという事実が明らかにされるのです。と同時に、すでに神の子、メシアとしての使命を理解しておられるイエス様は、「両親とともにナザレに下り、二人に仕えていた」と記されています。イエス様は人の子として両親とともに過ごし、人間として成長する道を歩まれたのです。ナザレでの30年の生活は、神様ご自身が、人間とともに暮らすことによって人間の営みを味わい、理解するために、それほどの時間をかけて、人生ということの重み、苦しみ、喜びに大きな意味を与えられたと言っても良いと思います。そして福音朗読の結びのことばは印象的です。「こうして、イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とにますます愛された」のです。神と人とに愛されることにより、神と人とを愛する人に成長するのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは神と人とに愛されていますか? 愛されるために何が必要でしょうか。

待降節第4主日 ルカ 1:39~45  2018年12月23日

「主のお母さまがわたしのところに来て下さるとは!」

 待降節第4主日にはいよいよ「イエス様の誕生」が告知されます。イエス様の誕生は、まず大天使ガブリエルがナザレのおとめマリア様に遣わされた時に、神のみ旨として、神の望みとして語られます。そして今日の福音では、マリア様と同じく神様のいつくしみによって母となったエリサベトの口から「イエス様の誕生」が語られます。エリサベトの姿には旧約時代のアブラハムの妻サラの姿が重なります。事実、エリサベトから生まれる洗礼者ヨハネは旧約の最後の預言者と呼ばれることもあります。

 2人の母の出会いは感動的です。2人とも人間の力ではなく神様のいつくしみによって母となり、旧約の終焉と新約の始まりという救いの壮大なドラマが、この2人の幼な子の誕生によって始まるのです。ラファエロをはじめとするルネッサンス時代の画家たちが聖母子とともに幼い洗礼者ヨハネを描いている作品は皆さんにもおなじみのことと思います。

 神様の救いの計画が幼な子たちを通して始まってゆくということは、なんと不思議なことでしょう! 神様は宇宙万物を無からお創りになる力をお持ちなのに、人間の救いのためには幼な子という道を選ばれたのです。それは、私たち人間の生命、人生、死にいたるまですべてが「神の深いあわれみといつくしみ」のみわざであることを示すためでした。神の御子が私たちと同じように「人間の姿」となられたのは、私たち一人ひとりが人間として誕生し、人生を歩み、死によって完成されるすべての道のりの中に神様の心配りがあることを示していると思います。そしてそれは母の胎内で躍ったヨハネのように、必ず、そのことに気がつき受け入れることの出来ることなのだというメッセージなのです。

 そのためには、エリサベトが言っているように「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」ことが大切なのです。私たちも聖母マリア様と同じように神様のことばを頂いているのですから、マリア様のように受け入れることが出来て、また信じることが出来る人は、マリア様と同じように幸いな人として生きられるのです。但し、マリア様が受けた恵みはこの世的な物質や富、名声ではなく、「神様への絶対的信頼であり、神様との親しさ」でした。神の子の母となること以上に神様と親しくなる道はあり得ないのです。それはあの十字架の下においても変わることはありませんでした。

【祈り・わかちあいのヒント】
*マリア様のように「神様と親しくなる」ために、どのようにしたらよいと思いますか?