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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

復活節第5主日  ヨハネ13:31~35  2019年5月19日

 先週はヨハネ10章から「羊のために命を捧げるよき牧者であるイエス様」のことばが語られました。そして今週も、「愛するもののために命を捧げるほど大きな愛はない」と語られたイエス様が、私たちのために「新しい掟」「唯一の掟」「愛の掟」を私たちに与えて下さいます。「掟」と言われるととても重い、そして苦しいものという感じがします。旧約聖書のモーゼ五書には613の掟が記されていると言われています。そして、まじめなユダヤの人々はそれに様々な解釈を加え、タルムードとか、ミシュナと呼ばれる細かい規定をどんどん作り、次第にその重苦しさにがんじがらめになっていってしまったのがイエス様の時代でした。イエス様の教えとファリサイ人たちの教えの違いは何だったのでしょう?

 「これをしてはならない、このようなことは律法に反する」――要するにこれはダメ、あれもダメと行いを禁じてしまう条項が多すぎたのです。イエス様の教えはその反対、「ゆるしなさい、与えなさい、愛しなさい」と行いを促す呼びかけでした。これは興味深いことです。私たち日本人は「人の迷惑になるようなことはしてはいけませんよ」と言われながら育ってきました。しかし、果たしてそれでよい人間に成長したでしょうか? 東洋の偉大な思想家である孔子は言われました。「己の欲せざるところを人に施すことなかれ」と。そしてイエス様は言われました「人からして欲しいと思うことを人にしてあげなさい」と。その表現は対照的です。私たちは、生まれた時から誰かに支えられて生きてこられました。そのことを忘れず、自分も誰かを支える人間になるように行うことをイエス様は呼びかけておられるのです。

 愛の掟とは決して「自分がやりたいようにしてあげればよい」のではありません。その人を見つめ、その人が本当に必要なことを、今、ここで行うことなのです。愛は生きているものですから、固定・定型ではありません。いろいろなことば、いろいろな行い、いろいろな生き方となって表れるものなのです。私たちの愛が本当の愛であるためには、生涯をかけて「イエス様の愛し方、私があなたがたを愛したように」ということを学び続けてゆかなければなりません。そうでないと単なる人間的な愛に留まり、時には自己満足的な自己愛に留まってしまう危険さえあるのです。「キリストのように考え、キリストのように行い、キリストのように愛すること」これが唯一の正しい愛の学び方なのです。一言で言えば「イエス様ならばどう考え、どうなさるだろうか?」といつも考え続け、祈りながら、探しながら行うことなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたがただ「一つの掟」として選ぶなら、どのようなことを掟としますか?

復活節第4主日  ヨハネ10:27~30  2019年5月12日

 復活節第4主日には「善き牧者のたとえ」が語られ、第5主日には、「新しい掟」が語られます。この2つの話には共通点があります。それは、イエス様と私たちには生命的な絆があるということを教えてくれるということです。
 ヨハネ福音書にはイエス様の「私は○○である」という自己表現が7つあります。

  1. 6:35,51 「私は天から降った命のパンである」
  2. 8:12,9:5 「私は世の光」
  3. 10:7,9 「私は羊の門」
  4. 10:11,14,27「私はよい牧者、羊は私の声を知っている」⇒第4主日
  5. 11:25 「私は復活であり、命である」
  6. 14:6 「私は道、真理、命である」
  7. 15:1,5「私はぶどうの木」

 さて、「羊」について、皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか? おとなしく従順なイメージがある反面、自分で身を守るすべのない弱いものというイメージもあります。群れでないと生きられず、また自分の力で水やえさとなる草をさがせないという愚かなイメージもあると言われています。しかし、その羊にただ一つ優れた点があるとすれば、それは「自分の牧者」は決して間違えないという聴き分ける力を持っていることです。

 イエスはよい牧者として、特に次のことを強調しています。

  1. 一頭、一頭の羊を知っている牧者です。知る=愛する
  2. 迷った羊をあきらめずに捜し出す牧者です。
  3. 羊のために命を捨てる牧者です。
  4. まだ囲いに入っていない羊について配慮する牧者です。

「よい牧者は羊を知っており、羊も牧者を知っている」が大切なキーワードです。

  知るとは:
親しく語り合えること
直感的にわかること
言うことに聞き従うこと

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様の声だとわかるためにはイエス様の呼びかける声に親しまなければなりません。
 あなたは1日1回、お祈りしていますか?

復活節第3主日  ヨハネ21:1~19  2019年5月5日

 ヨハネ20~21章において、イエス様の出現が様々な形で語られています。空の墓を見て信じる「愛する弟子」、涙のゆえに最初の出現を受けるマグダラのマリア、イエス様にことばをかけて頂くまで不信に苦しむトマス、そして今日は弟子たちに対する3回目の出現が朗読されます。

 ティベリアス湖畔での出現です。ガリラヤ湖と記さなかったのは何故でしょう? このエピソードはルカ5章1~7節における最初の弟子たちの召命を連想させます。ヨハネは最後の章にもう一度、弟子たちの原点、すなわちイエス様との関わりを強調しているのでしょう。弟子たちの名前が何人か記されており、その合計は7人です。なぜ12人ではなく7人なのでしょう? この「7人」という弟子たちの数は、4000人を養った時にあまったパンくずを入れた「7つ」というかごの数と一致します。12はイスラエルを象徴する数字であり、7は全世界の人々を象徴する数字であることを考えると、3度目の出現における証人となる7人には、全世界への派遣ということが暗示されていると考えられます。

 そして、この箇所の特徴は、「気がつくヨハネ、飛び込むペトロ」の姿です。多くの魚が取れた! そのしるしを見て「主だ」と気がつくのは「主に愛された弟子」ヨハネです。愛されているとは「心が通い合っている」ことなのです。だから誰よりも早く「主だ」と気がつくのです。信仰とは「気がつくこと」「心が通い合うこと」「人々にイエスの存在を告げること」なのです。そして、ペトロは信仰のもう一つの側面を表します。ペトロは「主だ」と知らされると「上着を着て水に飛び込んだ」と記されています。常識に反するこの行いは何を表しているのでしょう? 泳ぐためにはむしろ着物を脱ぐはずです。裸では失礼だから……という理由もあるかもしれません。しかし、それよりもペトロの決意を表していると思います。ペトロは3度もイエス様を「知らない」すなわち「関係がない」と裏切った思いを忘れていません。今、もう一度、あのガリラヤ湖での最初の出会いに立ち戻って「今度こそ、どんなことがあっても、十字架の上にでもついて行きます!」という弟子であるペトロの決意を表しているのだと思います。信仰とは「行い・生き方をもって表す心」「イエス様のいるところに自分もいること」という行動的なあり方なのです。ヨハネの表した信仰の側面、ペトロが表した信仰の側面、そのどちらが欠けてもキリストの共同体である新約の教会は成り立たないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはペトロ的? それともヨハネ的? それとも……?

復活節第2主日(神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19~31  2019年4月28日

 復活節の間はヨハネ福音書が多く用いられます。復活節第2主日からご昇天までの間の4回の日曜日の福音朗読は、すべてヨハネから選択されているのです。さて、今度の日曜日は復活したイエス様の出現について有名な箇所の一つが朗読されます。

 復活の日の1日の出来事を振り返ってみると、朝早く、マグダラのマリアたちがイエス様を葬った墓にやって来て、墓が空であることを知り、弟子たちのところに知らせに走ります。ペトロともう1人の弟子が墓に駆けつけ、それが事実であることを知り、帰って行きます。マグダラのマリアだけが涙のうちに墓に留まり、そこでイエス様に会います。その同じ日の夕方、イエス様が弟子たちのところに現われます。この朝と夕べの2つの時間は1日の始まりと終わりの時を意味しており、イエス様の復活が一時的なことではなく、人間の営みのすべてのうちに「主イエスはともにおられ、私たちとともにいる」ことを表していると考えられます。さて、死んでいるかのように意気消沈し、あたかも墓に葬られている人間のようにユダヤ人を恐れ、かぎを掛けて潜んでいた弟子たちの「真ん中に」イエス様が現われます。「あなたがたに平和があるように」ということばとともに、手とわき腹を示されます。さらに弟子たちに聖霊を与え、罪をゆるす権能を与えられます。

 その時、トマスは用事で不在だったようです。彼は「自分の目で見なければ信じない」と、イエス様の出現に立ち会えなかった寂しさ、不安、疑いから、条件をつけてしまいます。1週間後にイエス様が再び、弟子たちを訪れます。この1週間後の出現も興味深いものがあります。何故翌日ではなく、1週間という時間にヨハネはこだわるのでしょうか? それは、主日というキリスト者にとって大切な時間、日曜日の大切さを教えているように思います。

 では、その1週間、イエス様はどこか遠くに行って不在だったのでしょうか? そうではないことがトマスに対することばからわかります。「あなたの指をここに当て……」というトマスが言ったことばそのままを言われるということは、イエス様はずっと彼らとともにおられたことを意味するのです。この箇所は、1日、1週間という私たちの生活の中にイエス様との関わりがあり、そのことを信じる者に「イエス様の不在」はありえないという大切なメッセージを伝えているのだと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私が今も信じられない思いでいることは……? 
 何を見れば信じられるようになるでしょうか?

復活の主日(日中のミサ) ヨハネ20:1~9(毎年共通)  2019年4月21日

 復活の主日には毎年、ヨハネ福音書のこの箇所が朗読されます。週の初めの日、マグダラのマリアたちが墓を訪れ、墓が空になっていることに驚き、弟子たちに告げ、ペトロともう1人の弟子が墓に走ってゆきます。

 パンセで有名なパスカルは「イエスの最後の神秘は十字架ではなく墓にある」ということばを残していますが、「墓」はイスラエルの人々にとって「黄泉」のシンボルでした。詩篇では墓は「滅びの穴」、「深い淵」と表現され、墓から死者が迷い出ないように大きな石でふさいでおきました。イエス様の復活の栄光は人々が恐れ、忌み嫌う「墓」から始まっているのです。イエス様の葬られた墓は「園」にあり、新しい墓であったことが記されています。「園」とはアダムの生まれたところであり、アダムの罪によって「墓」は死の象徴になりました。新しいアダムであるイエス・キリストも「園」から現われ、「墓」はその意味を「新生」、「復活」、「死から生への過ぎ越し」へと変えられたのです。

 「墓」にたどり着いた2人の弟子たちが見たものは、「空の墓」と「おりたたまれた布」でした。何故、「布」について福音書は記したのでしょうか? 四旬節第5主日のラザロのよみがえりのエピソードを思い出してください。ラザロは自分の力で「墓をふさぐ石」を取り除けず、現われた時は布で包まれたままでした。これは、彼がもう一度、死ぬことを表わしているのではないでしょうか? イエス様の体や頭を覆っていた布は「きちんとおりたたまれていた」と、ヨハネ福音書は見た者でなければ語れない詳しい事実を語っています。もう死者となることがない! 遺体を覆う布はもはや必要がなくなったのだ! という思いがこのことばの中に秘められているのです。

 この地上になぜ私たち人間が生じたのか? それは神様のみわざであると信じる私たちならば、キリストの復活も信じられるはずです。何故ならば、父なる神は御子であるイエス・キリストを復活させ、父という名を除いて一切の栄光も権能もお与えになり、この地上の死も生も超越した存在、神の御子であることを復活を通して示されたのです。しかも大切なことは、イエス・キリストの死と復活は神の偉大な計画のうちにあり、イエス様を復活させた御父のみわざはイエス様お一人のことでなく、すべての人間の救いのためのみわざであることです。イエス様は新しいアダムとして、人類に父なる神に至る真の信仰・従順・愛の道を開かれたことが復活を通して宣言されたのです。この地球、宇宙、世界が人間の意志によって始まったものではないように、キリストの復活も人間の意志によって行なわれたのではなく、神の偉大なあわれみにより実現したことを福音書は宣言しているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが走ってゆくべき「墓」はどこにあるでしょうか?
*「布」というしるしを私たちは見ているでしょうか?