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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第28主日  ルカ17:11~19  2019年10月13日

 このエピソードもエルサレムに上る途中の出来事でした。重い皮膚病(ハンセン病)を患っていた10人の人々がイエス様に近づいてきます。しかし、遠くに立ったまま声を張り上げてあわれみを願います。この種の病気に罹った人たちは家族からも離れ、仕事も出来ず、人々から離れて生活しなければなりませんでした(レビ記13:45~47)。レビ記の13章から14章にこの病気のことについて詳細に述べられています。
 イエス様は直ちに「祭司たちのところに行き、体を見せなさい」と命じています。レビ記の14章には重い皮膚病を患った人が清めを受ける時の指示が詳しく記されています。その清めの儀式は8日間かかるものでした。彼らは祭司のところへ行く途中に清くなりました。しかし、1人を除いては、早く清めの儀式を終えて、家族のところ、自分の町に帰りたかったのでしょうか、そのまま先に行ってしまいました。その中の1人だけが、自分の身に起こったことを知り、イエス様に感謝するために戻ってきました。体をなおされたのは全員です。しかし、イエス様によって「心までがいやされた」のはこの人だけでした。その他の人は、きっと後でイエス様に感謝すれば良いと考えていたのかもしれませんが、その時イエス様に会えるとは限らないのです。思っていても行なわないことは何もしないことと同じなのです。

 信仰とは、ただ頭の中、心の中で「思い」をもっていれば良いのではなく、必ず「ことば」として語り、「行ない」として表さなければ意味がないのです。私たちは「頭や心」でキリスト者であっても、「ことば」でそれを誰かに語っているでしょうか? また、私たちの思いを「行ない」によって表しているでしょうか? 「いつか言うつもり」や「いつかするつもり」ではなく、「今、ここで、このために」(ラテン語ではHic et nunc, ad hoc)でなければ「無」に等しいのです。

 このただ1人戻ってきた人は、イスラエルの人々から見れば異教徒と交わって真の神の民とは言えないサマリア人でした。感謝は人間としての基本的な在り方です。どの時代においてもどの社会においても、感謝という基本的なことが忘れ去られていたり、軽視されたりしているならば、その人間、その社会は決してうまくいっているとは言えないと思います。私たちカトリック教会のミサは別名としてユーカリスチア、すなわち感謝の祭儀と呼ばれていることを思い起こし、神様と人々に感謝しつつ、信仰の道を歩まなければならないと思います。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「後でやるつもりだった」という言い訳は神様には通じないようですが……

年間第27主日  ルカ17:5~10  2019年10月6日

 さて、ルカ17章にもイエス様のたとえ話が登場してきます。今日の箇所を語ることになったきっかけは、弟子たちが「私たちの信仰を増してください」と願ったことでした。これは、ある意味で「率直で、イエス様の弟子たちらしい」願いだと思います。なぜなら多くの人々は、信仰を、その人の主体的な努力、知的、意志的な探求心、求道的な姿勢と考えているからです。しかし、聖書の中では時々、このような願い・叫びが登場してきます。子供が悪霊にとりつかれて苦しんでいる父親がイエス様に「もし、出来ることでしたら、この子を救ってください」と頼んだ時、「信ずるものには何でも出来る」とイエス様は答え、父親は「信仰の弱い私を助けてください」と叫んでいます。

 また、たびたびイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と語られています。信仰とは一体、何なのでしょう? この基本的なことについて考えてみましょう。一般に「信仰」とは、「神様を信じること」と理解されています。それは正しいことですが、では、どうすれば神様を信じることが出来るのでしょうか? それには二つの面があると思います。知ること委ねることです。

 旧約聖書では、「アーマン」と「バータハー」という二つのことばで信仰の両面が表されていました。アーマンは「アーメン」と同じ語源であり、「堅固、確実」を表すことばです。すなわち、人間として与えられている能力を総動員して探し求める、主体的な努力という側面、そしてバータハーは、知識や理解を超えて委ねていることへの安心感です。すなわち、「本物、真実だからこそ」安心して委ねることが出来ると感じられるということなのです。からし種1粒ほどの信仰があれば、という表現には、小さく見える出発点でも成長してゆけば、という将来への展望が含まれていると思います。「からし種を見なさい。それは目に見えないほど小さいが、それが育つと鳥が来て、巣をかけるほどに成長する」のです。従ってキリスト教で言う「信仰」は、自力本願でも他力本願でもなく、つまりどちらかの一方通行的な信仰ではなく、神様の恵みと人間の努力が出会うことによって初めて可能になることなのです。

 信じることは、探し続けること、学び続けることなしに成り立ちません。つまり、御父への道であるイエス様との親しさを増し続けることなのです。キリスト教の最も古い呼び名は「主の道に従う者たち」(使徒行録9:1)であり、後にアンティオキアにおいてキリスト者と呼ばれるようになりました(使徒行録11:26)。この名によって分かる通り、私たちは生涯、求道者であることを忘れてはならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*信仰は無くなることはありません。神様が私たちを信じているという点で。

年間第26主日  ルカ16:19~3  2019年9月29日

 ルカ16章にはこの世の富に関するたとえ話が集められています。年間第25~26主日にはこの16章が2回にわたり朗読されるのです。先週の不正な管理人のたとえに続いて、「金持ちとラザロ」のたとえ話が朗読されます。
 ルカ福音書に記されたたとえ話にはドラマチックなものがあります。この金持ちとラザロのたとえはその典型的なものです。旧約聖書のヨブ記を連想させるところがあります。

 さて、このたとえ話に登場してくる金持ちは大変な財産家でした。「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て」という表現は、王のように身分の高いこと、地位、権力、財産を有していたことを意味しています。この金持ちは死んで後、陰府(よみ)に落とされます。それは何故なのでしょうか。この金持ちは特別に犯罪を行って、金をもうけたとか、人を殺したとは書いてありません。しかし、この人は、神様から見ればある致命的な罪を犯していたのです。
 それは、「知りつつも、何もしなかった」こと、すなわち、無関心の罪、怠惰の罪のためなのです。彼は、自分の家の門前に、「できものだらけの貧しい人が横たわっていたことを知っていました」。当時、金持ちの人は、食事の時に脂の乗った肉を食べた手をパンでぬぐい、それを捨てていましたので、貧しい人、物乞いの人たちは、それを門前にまいてくれることを願って集っていたのです。
 この金持ちは、それを惜しんだというよりも、「できものだらけの気味の悪いみっともない奴がいつもウロウロしていては、体裁が悪い」と思っていたのかもしれません。だから、「一度でもパンくずをやれば、居着いてしまうかもしれない」からと召使いたちにそれを禁じていたと思われます。彼は、その貧しい人の名前まで知っているのですから、彼のことを知らなかったわけではありません。

 このたとえ話は、登場人物にラザロという名前が出てくるところに特徴があります。一説には、この金持ちも「ラザロ」という同じ名前であったともいわれています。同じく「神は助けたもう」という意味の名前を持ちながら……。もう一つの特徴は「貧しいラザロのおとなしさ」です。彼のことばはこのたとえ話の中に一言も登場しません。さて、これは何を意味するのでしょうか……。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様は「貧しい人たちはいつもあなた方とともにいる」、「これらの小さな人々にしたことは私にしてくれたこと」ということを語っています。あなたの答えは?

年間第25主日  ルカ16:1~13  2019年9月22日

 ルカ16章にはこの世の富に関するたとえ話が集められています。年間第25 ~26主日にはこの16章が2回にわたり朗読されるのです。さて、今日はその1つ目のたとえ話を取り上げてみましょう。「不正な管理人の賢いやり方」というたとえです。
 これは、ある意味ではわかりにくいたとえ話と言われています。一見すると、財産管理の仕事をやめさせられるかも知れないと怖れた管理人がこれからの生活のためにとった手段が、不正なやり方のように思えてしまうからです。しかし、彼が負債のある人々を呼び出して、その負債を軽減してあげたというのは不正なやり方ではないのです。当時、財産の管理人は、主人から預かった財産を運用し、主人のためと自分の手数料(儲け分)を稼いでいたのです。従って、この管理人が軽減してあげた分は自分の手数料ということなのです。たとえ話ですからわかりやすくするために「油100バトスを50バトスに」、「小麦100コロスを80コロスに」となっていますが、この軽減分はいずれの場合も当時の500デナリに相当する価値があります。
 この「不正な管理人の賢いやり方」のポイントは、彼の次の生活や仕事のために考えたこの方法にあります。彼は自分でも言っているように「力仕事はできない」ことを知っていました。では商売はどうでしょう? しかし、「管理の仕事をやめさせられた無能な人」といううわさが広まれば、多少の元手があったとしても、信用第一の商売において顧客がつかず、そうなれば、やがて商売も不調となって、物乞いになってしまうことでしょう。そこで、彼がとった手段とは、自分の財布に500デナリを残しておくのではなく、相手の財布の中に入れてあげるということでした。それによって彼が得たものは、使ってなくなってしまう500デナリではなく、彼の評判であり、相手の人々からの忘れられることのない感謝と信頼と友情です。つまり、これからもずっと彼の味方となってくれる人々の心を得たということなのです。ユダヤ人社会では恩義を受けた場合、それを何倍にもして返すという慣習・伝統がありました。彼は冷静に自分の実力を見極めた上で、本当に必要なものをこの世の富を用いて手に入れたのです。それゆえ、彼の主人は彼のやり方を賢いと誉めたのです。
 このたとえ話の主人公のように、私たちも与えられている時間、チャンスを生かさなければ、道が開かれないのです。信仰には「鳩のような素直さとへびのような賢さ」が必要なのです。私たちの信仰は、よい時だけでなく、つらい時にもこれを乗り越える強さが求められているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたの信仰に「あきらめない」という要素が充分ありますか?

年間第24主日  ルカ15:1~10  2019年9月15日

 今日の福音朗読はルカ15章からです。この章では「福音の中の福音」と呼ばれる有名な3つのたとえ話が語られています。聖書学者は、このルカ15章がエレミヤ31章と深い関連があると解説しています。エレミヤ31章は、旧約聖書において明確に「新しい契約」について預言されている箇所なのです。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来ると主が言われる……わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す。こうしてわたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。旧き契約においては神の掟は石の板に記されました。イスラエルの祖先はそれを忘れたり、心に留めずに神様に背くような行いをしてしまいました。新しい契約においては、神様の掟は心に記されるものとなります。目で見る文字や耳で聞くことばは忘れ去られることがあっても、心に染み透り、心に記された神様の愛とその教えは、決して消え去ることがありません。こうしてイエス様は父なる神の望み、新しい契約を打ち立てるために、モーセ以上の仲介者として、新しい契約の犠牲の子羊として、神様と神の民の間に立てられた唯一の大祭司としてご自分を捧げ、この新しい契約を成就させるのです。

 ルカ15章は「神の限りないあわれみ」が一貫したテーマとなっており、その3つのたとえをとおして、人間の常識からすれば考えられない「神様の愛の基準」が語られています。99匹の羊を置いてまでも迷った1匹の羊を捜しに行く牧者の姿、1枚の銀貨を捜し出すまで決してあきらめない女性、そして息子がどんな姿で帰ってきても受け入れる父親の姿などは、人間の常識の尺度では受け入れられないほどの寛容さ、深さ、広さ、高さを感じます。このたとえ話にいささかでも不満を感じるのは、私たちが無意識のうちに「迷った羊ではない立場」・「わがまま勝手をして帰ってきた息子ではない立場」からこのたとえを聞いているからではないでしょうか? そういう迷惑をかける羊や息子になったことがない!というのは本当でしょうか? 神様は天の高みから私たちを眺めていると思いがちですが、実はそうではなく、この地上で私たちと一緒に成長してゆきたいと望んで御子であるキリストをこの世に送られたのです。迷いやすい羊である私たちと歩みをともにして下さるキリスト、わがままを言い、勝手な行いで迷惑をかけてしまう私たちに近づいて、「あなたは誰とともにこの人生を生きたいのか? 自分のやりたいことをすることが本当に幸せなことなのか?」といつも私たちの心に語りかけて下さるのがあのイエス様なのです。人間の考える愛にはいつも限界や限度がつきまといます。しかし、神様の愛には限界がありません。いつもいつも私たちを包み込む、大きな大きな愛なのです。小さい人間の心ではなかなか理解できないほどのものなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*大き過ぎて目に入らないもの、当たり前過ぎて気がつきにくいものは?