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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第20主日  ルカ12:49~53  2019年8月18日

 先週の福音に続く箇所ですが、イエス様の厳しいことばが語られています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである……私には受けなければならない洗礼がある」。イエス様は御父から送られた最後の預言者としての使命を自覚しておられるのです。また「受けなければならない洗礼」とはゼベダイの子らの願いに対して「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか?」(マルコ10:38)と問われていることでわかるように、受難・十字架の苦難を示すものです。「洗礼」とは水に沈められることを意味し、「死」の象徴であるとともに「新たな生命」への誕生を意味します。

 イエス様のことばがここまで厳しいのは、イエス様にとって受難・十字架は決して避けては通れない道であり、御父の望みを果たすためにはこのような苦難の道のりを引き受けるという決断がなされていたことを表わしています。このイエス様を信じるということは、単なる心の中の思いだけで済むものではなく、「私に従いたいのなら、自分の十字架を負って日々、私についてくるがよい」(ルカ9:23)とのことばのとおり、イエス様と同じ道に招かれているということです。思想として、哲学としてイエス様の考えを受け止めるだけでは、信仰者ではありえません。イエス様と同じ生き方を受け入れることが私たちの受けた「洗礼」の意味なのです。12人の弟子たちはその覚悟を持っていたはずです。しかし、実際の十字架の場面ではみな逃げ出してしまいました。あのペトロですら、イエス様のことを「知らない、関係がない」と否認してしまいました。イエス様はそれでもペトロたち12人を罰したり、叱りつけたりすることはありません。「心は熱していても肉体は弱い」ことをイエス様は知っておられるのです。ペトロたちがイエス様と同じ十字架・苦難の道を歩むことが出来るようになったのは、イエス様の十字架・復活の後のことです。

 信仰には、「狭き門、けわしき道」をあえて選び、そして実際に苦労しながら歩まない限り理解することが出来ない面があるのです。しかし、その苦労も信仰によって戴く神様の大きな愛、信頼、安心、喜びに比べれば、小さなものに過ぎないのです。ペトロは湖の上を歩いてイエス様のところに近づきたいと願ったにもかかわらず、仲間の乗る舟から離れ、まだイエス様のそばに到達するまでは少し距離があるところで、自分の足元の波や水におびえてしまい、イエス様から目を離したその時、水の中に沈んでしまいました(マタイ14:22~33)。信仰の要諦は「イエス様から目を離さないこと」なのです。もう一度、イエス様についてゆくか、私たちも決断を新たにしなければなりません。「主よ、あなたをおいてどこに行きしょう」と私たちがミサの中で答えているのはただのことばだけはないはずです。ならば私たちの生き方は変わるはずなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは何をイエス様にお願いしたいですか?

聖母の被昇天  ルカ1:39~56  2019年8月15日

 聖母の被昇天は、エルサレムにおいてすでに5世紀に祝われていた記録があるとのことです。6世紀には東方教会においてマリア様の死去の日として祝われ、西方教会においても8世紀にはマリア様の被昇天という名で広く知られるようになりました。教義として宣言されたのは、1950年11月1日に『ムニフィチェンティッシムス・デウス』という教義決定書が、ピオ12世教皇によって発表されたことによりますが、古代教会からマリア様の被昇天は特別な尊敬を受けていました。

 この教義決定書の文書をみますと「被昇天」という用語は見当たりません。「アスンプタ」(受け入れられた)ということばで、聖母マリアは、その誕生の時から人生のすべての日々、そして死の時も神様のいつくしみの中に受け入れられたお方であるという意味が語られています。確かに、イエス・キリストと最も深く結ばれているマリア様ですから、誰よりも深く、強くイエス様の復活と栄光にあずかっておられることを古代よりキリスト者たちは実感していたのです。

 さて、福音朗読では、マリアの賛歌とよばれ「マグニフィカット」という名でも親しまれている、マリア様の心からほとばしり出た新約聖書中で最も美しい賛歌の一つが朗読されます。ミサの朗読で用いられる共同訳聖書では、冒頭のことばが「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」となっていますが、「わたしは神をあがめ、わたしの心は神の救いに喜びおどる」という「教会の祈り」(聖務日課)や典礼聖歌集で歌われることばは、「神様の救い、いつくしみ、愛の深さと広さ」を中心として表現しており、すべてにまさって神様を大切に思うマリア様の感動・喜びを表現しているように思います。

 そして今日、8月15日は、日本ならびに日本の教会にとって大きな意味のある一日です。1549年のこの日、かのフランシスコ・ザビエルが日本に到着し、この国にキリストの教えの第一歩が始まった日です。1603年、江戸の地で最初にミサが行なわれたのもこの日、さらに幕末、沖縄に再宣教のためパリミッション会の宣教師がたどり着いたのもこの日、あの戦争がようやく終わったのもこの日なのです。この国が聖母の特別ないつくしみによって守られ、愛されていると思えてならない一日なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
 「いつくしみ深い神よ、あなたは聖母マリアを救いのわざの協力者として選び、その全生涯を受け入れられました。悲しみにも耐え、み旨に従って生きた聖母マリアの信仰に励まされながら、わたしたちも深くキリストに結ばれていきますように。 アーメン」

年間第19主日  ルカ12:32~48  2019年8月11日

 今日の日曜日のミサにおける朗読箇所には、一貫したテーマが感じられます。それは「神を待ち望むこと」です。第1朗読では知恵の書が朗読され、「順境も逆境も心を合わせて受け止める」ことが神の民の生き方であることが語られ、あの過ぎ越しの出来事を待ち望んだ先祖たちと同じく、その子孫であるイスラエルの人々にとっても「神を待ち望むこと」が信仰における大切なキーワードであると宣言されています。第2朗読でも「あなたの生まれた国を離れなさい」と命じられたアブラハムが「行く先も知らずに出発したこと」が語られています。天のふるさとを目指して旅することはアブラハム以来、すべての信仰者の原点となりました。

 信仰においては、「生まれた国」すなわちこの地上の社会的価値観から「天のふるさと」すなわち神様の価値観への方向転換が求められるのです。私たちは幸せで安定した生活をしているとそれがすべてと思い込み勝ちです。でも、この地上の生活では安定も幸せもつかの間のものに過ぎないことをいつか知ることになります。私たちは、生まれ、育ち、自分の望む生き方で歩んでいるように思いますが、これらのことはすべて「誰かによって支えられているからこそ可能なこと」なのです。それらのものは、病気になったり、仕事が不調になったり、家族や仲間とうまく行かなくなれば、いともたやすく失われてしまうものなのです。イエス様のたとえ話は、「今」「目に見えているもの」は決して永遠ではないこと、もし恵まれている状態ならば、その恵まれていることに感謝の気持ちを忘れてはならず、またその恵みを自分だけに用いることは誤りであること、反対に、もし恵まれた状態でなくても、絶望したり人々や神様を恨んだりすることはなく、その試練にあってこそ信仰が鍛えられるものであることを述べています。

 「順境にあっても逆境にあっても」という第1朗読のことばは、現在では「結婚式の誓いのことば」の一節に使われるほど有名になりましたが、本来は信仰者の姿勢・覚悟・戒めを述べる聖書のことばなのです。「順境」、すなわち健康にも恵まれ、仕事も順調、家族や友人とも仲がよい順風万帆な時だけ信仰するというのでは、本来の信仰ではありません。全くの逆風、嵐、試練の時にあっても信頼・祈り・努力・希望を失わない姿勢・生き方が、信仰者には求められていることをイエス様は強調されています。私たちが生きるために必要なものがいろいろあります。食べるもの、着るもの、住むところ、お金、仕事も……。しかし、それだけではありません。イエス様は言われます。「あなたがたの富のあるところにあなたがたの心もある」と。私たちの心が何に向けられているか? 誰に向けられているか? 今、私たちの心に関心が向いているものが本当に私たちに真の幸せをもたらすものか、もう一度、見つめ直してみなければなりません。

【祈り・わかちあいのヒント】
*多くを任された者は、多く要求されるのです……。

年間第18主日  ルカ12:13~21  2019年8月4日

 今日のテーマは地上の富に対する根本的な心構えです。第1朗読の伝道の書(コヘレトの言葉)では、富は人を幸せにする保障にはならず、少なすぎても多すぎてもともに人を苦しめるものであることが説かれています。第2朗読では、使徒パウロは「上にあるものを求めよ」と語り、「貪欲は偶像崇拝にほかならない」とまで喝破します。さて、福音朗読ではある人の遺産相続に対する訴えがきっかけとなって「この世の富」についてイエス様のたとえ話が語られることになります。

 当時の律法によれば、遺産相続の際に長兄に3分の2、その他の兄弟に残りの3分の1が分割されたようです(申命記21:17)。ところが長兄から、あるいは他の兄弟からこの人は何ももらえなかったのかもしれません。律法学者たちはこのような相談にも応じる、いわば弁護士のような役割をしていましたが、イエス様はめずらしいほどはっきりとこの申し出を拒絶しています。イエス様は、富は物質にすぎないのに、何故人間は富に振り回され、人間らしさを失い、人を殺したり争ったりするもとになるものに翻弄されるのかと嘆いておられます。富はあくまでこの世に生きている間だけ必要なものであり、また多くを集めたからといってそれがその人に幸せな人生を保障するものではないことを指摘します。つまり、手段に過ぎないものにまどわされ目的とすべきことまで見失ってしまう人間の陥りやすい傾向、欠陥に注意するように促しています。

 日本の社会では、年金だけでは足りず2000万円を自分で用意しなければ、ということが話題になりました。確かに老後にお金の苦労はしたくありませんし、これまで国のいうことを信じてちゃんと支払ってきたのに年金だけでは老後の生活が保障されないとなれば大きな問題です。しかし、年金や保険制度が完全に整備されたからといって人間がそれだけで幸せに生きられるものではありません。その人の人生が幸せかどうかは「物を持つこと」ではなく、「その人が人として受け入れられること」、また「その人が自分の人生に目標を持ち、生きがいのある生き方をしていること」にかかっているのです。中国のことわざに曰く、「錦を着て憂うる者あり、水を飲んで笑う者あり」と。イエス様は言われます、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と。私が今、持っているもの、この生命も、性格も才能も時間も、そしてお金も、「私のものだ」と独占してしまうべきものではなく、「神のため、神が愛しておられる人々のため」にいかに用いるかが神様によって問われているのです。「あまっているからどうぞ」ではなく、「これは自分のために用意したものですが、今のあなたには私以上に必要なものですからどうぞ」と言える人、行なえる人こそ幸いな人とイエス様は言いたいのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私が今持っているもので天国まで持って行けるものは何でしょうか?

年間第17主日  ルカ11:1~13  2019年7月28日

 ルカ福音書は祈りの福音書というあだ名がつけられるほど、「祈り」を強調しています。まず、ルカ福音書の冒頭は、洗礼者ヨハネの父となるザカリアが祭司の務めを果たすために神殿の至聖所に入るところから始まります(1:8~23)。またイエス様の洗礼の場面でも、洗礼を受けた後、祈りを捧げているイエス様の頭上に天が開き、聖霊が鳩のような姿であらわれ、「これは私の愛する子」という声が響きます(3:21~22)。12使徒を選ぶ前にも祈りを捧げるイエス様の姿を記しているのはルカの特徴です(6:12~16)。ご変容の記述にも「祈っておられるとその姿が変わり」と記すのはルカだけです(9:28~36)。そして、今日の福音、すなわちイエス様が主の祈りを教えてくださった時も、イエス様ご自身の祈りと私たちに教えてくださった祈りとの絆をルカは強調していると思います。

 この当時、ラビとその弟子たちのグループには、そのグループの特徴を表わすグループ独自の祈りがあったようです。「ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにもイエス様のグループであるしるしとなる祈りを教えて下さい」というのが弟子たちの望みであったのです。ルカはマタイが記した「主の祈り」よりも簡略な形に、マタイ福音書は「7つの祈願」ですが、ルカは「5つの祈願」にまとめています。聖書学者によれば長さの点ではルカが、用語の点ではマタイの方が、イエス様がお教えになったものに近いと言われています。そして、この主の祈りは、マタイもルカも「主の受難」と深いかかわりがある祈りであるという点で一致しています。「み旨が行なわれますように」とはゲッセマネで主の口から繰り返し聞かれる言葉となります。「誘惑にあわせないで下さい」とは「もし、あなたが神の子ならその十字架から降りよ」という敵対者の罵りの言葉を連想させるものがあります。「私たちの罪を赦してください」とは十字架上で回心したあの盗賊の言葉を思い起こさせます。

 「御国が来ますように」という祈りの言葉は不思議です。「天国に入れますように」ではなく、「み国が来ますように」とはどんな意味なのでしょう? この地上において神の御心が実現することこそ、イエス様がこの世に来られた理由なのです。神様を「父」と呼ぶことにより、人間が作り出したすべての壁、分け隔て、文化、人種、国籍、言語などもすべて超越する原動力が与えられるのです。この地上を、天と同じく神様の御心のすべてが実現する世界に変えてしまおうとするイエス様は、そのために十字架さえもいといません。人間がしでかすどんな罪や悪よりも神様の愛は強く、その罪や悪をさえも素晴らしい赦しと恵みへと変えてしまうことが出来るお方こそ神であることを示すのが、あの十字架の出来事なのです。私たちがイエス様の弟子であることを示す「主の祈り」を、心をこめて今日も祈りましょう。

【祈り・わかちあいのヒント】
*主の祈りはイエス様と一緒に唱えている祈りであることをお忘れなく!