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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

四旬節第2主日 ルカ9:28b~36  2019年3月17日

 毎年、四旬節の第2主日にはイエス様のご変容の箇所が朗読されます。さらに8月6日にはご変容の祝日があり、同じくこの箇所が朗読されます。1年の間に2回も同じ箇所が朗読されるということは、この出来事がイエス様と私たちにとって重大な意味があるからなのです。

 イエス様は3回にわたって、やがてエルサレムで十字架にかかって死ぬこと、しかし、それは終わりや失敗ではなく、「主のしもべの道」であり、十字架の死を通して天の門が開かれ、復活の栄光が現れることを弟子たちだけに話しました。しかし、弟子たちはそれを受け入れることが出来ず、「確かにいろいろな困難はあるかもしれないが、イエス様のことだから、大きな奇跡を起こして、大成功をおさめ、イスラエルの王となり、我々も重要なポストにつけるに違いない。厳しいことをおっしゃっているけれど、我々を戒めるために言っておられるのだろう」と現実から目をそむけ、自分たちに都合の良いように受け止め、考えていました。

 この弟子たちの有り様こそ、私たちの信仰とよく似ているのではないでしょうか? キリスト教は「愛の宗教」と言われますが、イエス様の言う「愛」とは、甘い夢やここちよい気持ちを指して言っているのではありません。ザビエルたちが日本に来た頃、この国の人たちにとって「愛」は「恋愛」の意味でしか、理解されていませんでした。それゆえ、ザビエルたちはキリストの言う「愛」を説明するために「喜んで損をすること」「ご大切」というような表現を用いたということが記録に残っています。

 このような弟子たちに気がついて欲しかったイエス様は、3人の弟子を連れて山に登ります。そして、彼らの信仰のために祈ります。祈っているうちにそのお姿が変わりました。モーセとエリヤを証人としてエルサレムで起こる出来事の意味が解き明かされます。ペトロたちは驚きと衝撃のために何をしたらよいのかわかりません。すると、雲の中から声が聞こえてきます。「これは私の愛する子、これに聞け」と。私たちはキリストに尋ねなければなりません。「主よ、私はどうしたらよいのでしょうか? 私の望みではなく、御父の望みを知り、それを行なうためにはどうすればよいのでしょうか?」と。祈りはその人を変えるのです。

考えるヒント:

  1. あなたはキリストの言う「愛」をどのような言葉で説明できますか?
  2. あなたはどのようなこと、誰のためならば「喜んで損をする」ことも引き受けられますか?

                      

四旬節第1主日 ルカ4:1~13  2019年3月10日

 灰の水曜日から四旬節が始まりました。灰は地のちりの象徴であり、私たち人間の存在のはかなさ、もろさ、みにくさ、死に向かってゆく私たちの象徴でもあります。このちりに神の息吹が注がれ、神の似姿として人間が誕生したのです。イエス様は、私たちを真の神の子として新たに誕生させるために洗礼を定め、また十字架を担うように教え、ご自身の復活に参与するように招いておられるのです。

 さて、四旬節の第1主日では、毎年、荒野での試練が朗読されます。イエス様は公の宣教の生活を開始する直前の40日間を荒野で過ごします。荒野はイスラエルの民にとって「試練の場」であるとともに「神様との親密な交わりの場」でもありました。私たちも四旬節を過ごすにあたって、暗い面持ち、雰囲気であってはならないと思います。つつましく、しかし、心に新たな輝きを保ちつつ、過ごしてゆきたいと思います。

 イエス様が悪魔から受けた誘惑は3つに象徴されています。第一の誘惑の意味は「自分の持っている力を自分自身の利益のために使え」ということです。これは一見すると悪いことでもなんでもないように思えますが、実はイエス様の十字架上での出来事に関連しているのです。「お前が本当に神の子ならば、十字架からおりて自分を救ってみろ、そうすればお前を信じてやる」というののしりの言葉こそ、このパンの誘惑と同じ根源を持つ誘惑です。イエス様の生き方とその教えは、人間の自己中心的な傾向と正反対に父なる神と人間に向かっての全力投球です。自分のため、自分の利益、自分の都合を中心にするやり方は、実は神様をも利用しようとする根源的な罪の生き方を象徴するものなのです。第二の誘惑もこれと似ています。神様をないがしろにしてこの世の成功、繁栄、利益を得たとしてもそれは虚しいことです。何故ならば、たかだか70年~100年を生きたところで、永遠の時の中では一瞬に過ぎないからです。私たちがこの世の財産や繁栄にこだわっているとすれば、それは死後にはそれらのものが何の価値も無いことを忘れているからなのです。人はちりから生まれ、ちりにもどるしかない存在です。この人生をどう生きるか、本当に虚しくないものを探し求めて生きるべきなのです。第三の誘惑は神を試すことです。これも私たち人間の一つの罪の傾向です。自分が納得がゆかなければ信じようとしない。神様は私たちが信じることの出来るようにたくさんのことをすでに証ししてくれているのに、それに気がつかないで、私たちは自分の満足や納得、つまり自分にとって都合がよいことを求めているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたがたびたび負けてしまう「誘惑」はどんなことですか?

    

年間第8主日 ルカ6:39~45  2019年3月3日

「人の口は心からあふれ出ることを語る」
 3週間にわたって朗読されたルカにおける「平地の説教」の締めくくりとなるイエス様のことばです。今日の福音の箇所は、ファリサイ人や律法学者のような人々に対する厳しい戒めのことばから始まります。盲人が盲人の道案内をすることが出来ようかとか、自分の目に丸太があるのに、兄弟の目にあるおが屑を取らせてくれとどうして言えるのだろうか、というようなことばです。

 この箇所をよく見てみると、「盲人と道案内」「良い木と悪い木」「良い実と悪い実」「茨といちじく」「野ばらとぶどう」「心の倉と良いことば」と、多彩なイメージをイエス様は語られています。そしてこの中心に「弟子は師にまさるものではない、しかし十分に修行を積めば、その師のようになれる」というメッセージがあります。つまり、イエス様とその教えを自分の人生を歩む真の道案内として信頼し、イエス様のことばを行うことによって良い木となり、良い実を結ぶこと、そのためには、イエス様のことばを心の中に蓄え、住まわせ、味わい、熟成させ、心から出る喜びとして、語れるようになることが大切ということなのです。ルカは、目⇒行い⇒心という順に、イエス様のことばを大切に読み、学び、心に深く刻み、生かされる人こそ、幸いな人、父のいつくしみとあわれみの証人となることが出来ると、わたしたちを諭しているように思います。イエス様のことばによって、まず自らを正し、そのことばを心の中に豊かに宿らせることの大切さを「平地の説教」の締めくくりとしているのです。

 このことは、わたしたちに二つのことを思い出させます。一つは幼きイエスの聖テレジアが小さな福音書をいつも懐に携えていたというエピソードです。テレジアは何かあるとその小さな福音書に触れて「イエス様ならどうお考えになるだろう」と考え、すぐにイエス様の思いと一つになろうとしたこと。そしてもう一つは、神社のご神体として鏡が置かれていること。古代の鏡は金属製で、いつも磨いていなければ姿が映りません。「かがみ」の真ん中の文字「が=我」を常に磨くと「よこしまな我」が消えて、そこに映るのは、「か(が)み」=神の姿であると言われることです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*ことばを大事にしなさい。あなたのことばは人を傷つけることもできれば、その人を喜ばせ、励ますこともできるのですから。

年間第7主日 ルカ6:27~38  2019年2月24日

「敵を愛しなさい」
 今日の福音も、先週朗読されたルカにおける「平地の説教」の続きです。マタイでは山上の説教とほぼ同じ内容が語られていますが、イエス様はマタイ福音書では集まった群衆全体に語りかけているのに、ルカ福音書では「弟子たちに語りかけられた」となっています。ルカ福音書の冒頭で言及される「テオフィロ」を思い浮かべてみますと、イエス様の周りに集まった12人の弟子たちだけでなく、時代を超えて、イエス様を慕い、イエス様のことばを人生のともし火として受け入れようとする「すべての人」へ語りかけられているものであることがわかります。

 マタイ福音書では、「隣人を愛し、敵を憎め」という旧約聖書の教えと対比させていますが、ルカ福音書では「愛の掟」として、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という天の父の愛、神の愛に繋がる道であることを示しておられます。天の父、イエス様が父なる神と呼ばれるお方は、ご自分がお作りになった人間を敵と見なしたり、攻め滅ぼしたりすることはありません。それゆえに敵という存在は人間の心が作りだした幻のようなもの、自分の恐怖心や自分のエゴイズムが作りだした虚像なのです。

 わたしたちの行いはギブ・アンド・テイクになりがちです。しかしイエス様は「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたたちにどのような恵みがあろうか」と語りかけるのです。ギブ・アンド・テイクという考え方は相手が自分に良くしてくれるならば、という条件や基準となってしまいます。イエス様はそれを乗り越えて、まず「あなたから始めなさい」ということを強調されているのです。自分に良くしてくれる人を憎むことは人間にはできません。必ずやあなたの小さな親切や善意は相手の心を動かすのです。たとえ蝶々のはばたきのようにか弱いものに見えても、人の心を変えてゆくのです。

 今日の福音の締めくくりには「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」ということばが出てきました。天の父である神さまがわたしたちに与えようとする基準は、わたしたちが隣人にどれくらい与えたかに関係しているのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが赦せないこと、憎んでいることと、赦せない人、憎んでいる人とは違うのでは?

年間第6主日 ルカ6:17,20~26  2019年2月17日

「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」

 今日の福音はルカにおける「平地の説教」の冒頭です。マタイでは山上の説教と呼ばれ、3つの章にわたり106節も記述されているのに、ルカではわずかに30節のみです。しかし、その内容はナザレでの最初の説教「貧しい人に福音が語られる」ということからすでに始まっているのです。有名なマタイの山上の説教では「心の貧しい人は幸いである、天の国は彼ら(三人称)のものである」と記されていますが、ルカの平地の説教では「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と二人称で語られていることはルカの特徴となっています。

 自分を頼みとして自己中心的に生きる人の不幸と神を中心に生きる人の幸いが明確にされているのが、ルカ福音書の記述によってよりきわだっています。それを強調するのが、第2と第3の幸いと不幸を語る際に使われている、「今」飢えている、「今」泣いている、「今」満腹している、「今」笑っているという「今」ということばです。現在の状態に安住してしまい、自分だけが満たされていることで周りの人々、神様の思いに気がつかない人はやがて不幸な状況へと転落してゆくのです。「今」の状態の厳しさ、困窮、困難にあっても神様への信頼と自分がなすべきこと、進むべき道について迷いのない人は幸いな人なのです。

 周りと比べて自分を不幸と思いやすいのが人間です。神様に、すぐに結果となって現れることばかり祈り求めてしまいやすいのが人間です。すでに生きるために必要なものが多く与えられているのに、わずかに不足しているものにとらわれて嘆いてしまうのが人間です。「辛いという字はもう少しで幸せになれそうな字である」と星野富弘さんが言っていましたが、神様の望みは人間を不幸に陥れることではなくその反対です。神様が決して私たちを見捨てないという宣言が、この平地の説教の根幹にあります。そうでなければイエス様を遣わすはずがありません。イエス様は、地上の有様を視察するためにだけ来られたのではなく、この地上に神の国(神様の愛といのちによって統治される状態)を打ち立てるために来られたのです。ただイエス様のなさり方は権力や富、法や掟による強制ではなく、「心の一新、回心、刷新」による変革であり、神の子としての成長を粘り強く呼びかけるというものです。それは悠長で、冗漫で、悠遠で、すぐには目に見えるものにはならないと言われるやり方です。なぜ、神の子が十字架に上るのか、そこにイエス様の愛の神秘があるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*「今」あなたは「幸せ」それとも「不幸」ですか? なぜ不幸だと思いますか?