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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第15主日  ルカ10:25~37  2019年7月14日

 ルカ福音書には、芸術家の福音書という別名があります。ルカ福音書の描くキリストの出来事、また様々な教えは、絵画や彫刻、音楽、演劇にたくさんのヒントを与えてきたからです。さて、ルカ福音書は、「たとえ話」の福音書とも言えると思います。イエス様のたとえ話といえばかならず思い出されるものの多くが、ルカ福音書に記されています。今日はその代表例である「よきサマリア人のたとえ」です。

 このたとえ話の導入は、ある律法の専門家の質問です。「永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいのでしょうか?」イエス様はまずそれに直接答えようとはせず、「律法には何と書いてあるか? あなたはそれをどう読んでいるか?」とお尋ねになります。すると、その人は「神と隣人を愛すること」と答えます。イエス様はそれを正しい答えと認め、それを行なうように諭されます。すなわちイエス様の答えは、知っていることでとどまらず、行なうこと、どう理解し、実際の生き方にどう結びつけているかが大切であると強調しておられます。このことはキリスト者にとって大切なことを意味しています。信仰を知識と同一視しがちな人々が多いからです。仏教でも「慈悲」を説き、儒教でも「仁」を説きます。教えの内容としては、つまり知識のレベルではキリストの説く「愛」と大きな差はありません。ただキリスト教の特徴は、人生を達観し、悟りを開くためや政(まつりごと)を行なう心構えを説くのではなく、私たち平凡な一人ひとりの人間に「行なうこと」を促がすところにあるのです。

 このたとえ話は「自分がどう救われるか?」について尋ねてきた人に、「あなたは誰の救い手となるか?」と切り返してきます。私たちの信仰は「自分の救いのため」という発想から見直すことを要求されます。自分のことを忘れて「誰かのために一生懸命」な時こそ、もっとも自分自身が生き生きしている時なのです。反対に、自分の健康、自分の運不運、自分の思いや都合にとらわれている時は「いつもどこかに不安やいきづまり、閉塞感を感じている」のではないでしょうか? それゆえに隣人が必要なのです。隣人は私をわずらわせるめんどうな人ではなく、私がもっといきいきと生きるために必要なチャンスを与えてくれている人たちなのです。

 今の時代は権利を主張する人たちが大勢います。しかし、キリストは「まず、神の国とその義を求めよ、そうすればすべての必要なことはおのずから与えられる」と教えておられます。自分のことばかりしか、目に入らない、関心がないという「自分中毒」ということに陥ってしまっている人間が多くなってはいませんでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたは誰の友人、隣人となっていますか?

年間第14主日  ルカ10:1~12, 17~20  2019年7月7日

 今日の福音朗読はルカ10章です。ここには72人の弟子の派遣が述べられています。面白いことに、このすぐ前の9章にも12人の派遣が述べられています。これはルカ福音書の特徴です。他のマタイやマルコには12人の弟子たち(使徒たち)の派遣が教育実習のように述べられていますが、ルカでは、12人に続いて72人の弟子たちの派遣がすぐ後に繰り返し述べられているのです。

 ここには、ルカ福音書が異邦人キリスト者のために書かれたものであるという性格が表われているのかもしれません。ルカ福音書が記された時代には、キリストの教えがイスラエルの人々に限定されるものではないことが、すでにいろいろな教会共同体の誕生により、実感できるものとなっていたのです。72という数字は12×6=72すなわち新しい神の民×月~土(6日間)の努力の上に神様が祝福を与え、日曜日に集うということと考えることができます。こうして、新しい神の民に加わる人々が全世界規模で広がって行くために、「働き手」となることが呼びかけられているのです。

 12人の場合も、72人の場合も、共通しているのは「何も持たずに行きなさい」という点です。これは、宣教とはどこか遠い場所へ出かけて行くことだけではなく、むしろ私たちの日常生活の場こそ、宣教の場であることを示していると思います。私たちは信徒で司祭やシスターのように外国に宣教には行けない、と宣教を限定して考えてしまいがちな私たちに、福音書の記事は、生活=宣教ということを教えています。ルカは特に使徒行録の中では、宣教=証しということばを使います。宣教と言うとことばや理論的な説明と理解しがちですが、ルカはもっと「行ない」を重視していると言えます。

 「子どもの使徒職」ということばを聞いたことがありますか? もっとも身近な人々への宣教こそ、私たちキリスト者の優先課題です。子どもに信仰を伝えることは両親の第1の義務になります。その子どもにも使徒職があると、ある人々は言います。子どもの使徒職とは「なぜ」と問い掛けることなのです。この子どもたちの「なぜ」ということにちゃんと向かい合うことが大切なのです。「育児とは育自である」と言った人もあるくらい、子どもを育てるには親自身もともに学ぶことが必要なのです。幼い子どもになぜということを理論として説明しても、子どもはわかりません。その説明された事柄も覚えてはいないこともしばしばです。でもその子も自分に向かい合ってくれた実感は覚えているのです。その思い出が大切なのです。親の顔の中に神様の顔が見えるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*神様があなたに期待している「使徒職」は何でしょうか?

年間第13主日  ルカ9:51~62  2019年6月30日

 今日は6月の最後の日曜日です。2019年も半年が過ぎ、これから残りの半年が始まる折り返し地点にあたります。年間と呼ばれる日曜日には祭服やストラの色は緑が用いられ、木々の緑の葉と同じく神様のみことばを、こころを広げて受け入れる信仰の季節と言えると思います。さて今日はルカ福音書の9章が朗読されます。それはエルサレムに向けて旅立つイエス様と弟子たちの姿です。

 この部分のおもしろさは、語られている2つのことがコントラストをなしていることです。

  1. サマリア人の村に入りましたが、彼らはイエス様を歓迎しませんでした。そこで、ヤコブとヨハネは怒りをあらわにしますが、イエス様はかえって彼ら弟子たちを戒めます。イエス様にとって反対や無理解、誤解は当たり前のことでした。それゆえ、この村の人々を罰することも非難することもなく、旅立ちます。
  2. 道を進んで行くと、今度はイエス様に従いたいという何人かの人々が現われます。しかし、イエス様はその人たちには厳しい現実を告げます。イエス様に従うということは、安定した生活があるという意味ではないのです。「人の子には枕する所もない」のです。また、別の人がイエス様から「従いなさい」と呼びかけられますが、彼は「お父さんが死んでからならば従いますが、今すぐは無理です」と、将来の可能性はあるが現在の生活から離れたくないと答えています。同じように別の人も「家族へのいとまごいをしてから」と、従うことにある意味での条件をつけてしまいます。ちなみにこれらと比較するとペトロたちは「ただちに網を捨て、父ゼベダイを舟において」イエス様に従ったのですから、ペトロたちの弟子としての心構えが感じられます。

 この2つのエピソードには、このように自分を迎え入れない人々には忍耐強く、自分に従いたいという人々にははっきりとした決意を求めるイエス様の姿勢が対照的に表われています。

 この福音書の記事は、私たちにキリスト者とは何であるかを鋭く問いかけるものになっています。“なんとなくクリスチャン”では、イエス様から「神の国にふさわしくない」と言われてしまうかもしれませんね。洗礼を受けたことだけでキリスト者と呼んでもよいものでしょうか? キリスト者とは、実際にキリストとともに歩んでいる人を指して呼ぶ名前ではないでしょうか? その意味では、招かれる人は多いが刈り入れのために働く人は少ないのかもしれません。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様に従うために私たちが捨て去らなければならない「しがらみ」はなんでしょうか?

キリストの聖体  ルカ9:11b~17  2019年6月23日

 聖霊降臨の主日の後に、神の救いのみわざ全体を統合するテーマとして「三位一体」「キリストの聖体」を祝う主日が続きます。今日の福音の朗読箇所は、5000人にパンを与える奇跡のエピソードですが、ルカ9章16節のイエス様のことばと行いは、新約聖書全体では10回も記述されているものです。そしてルカ福音書では特に次の点が特徴となっています。

  1.   神の国について語り、人々をいやすイエス様(11節)
     ご自分を求めるすべての人々を迎え、受け入れるイエス様の優しい愛、イエス様における神の国の現存、イエス様によるいやしを、一連のものとして考えています。すなわち、「神の国」とは「神の愛と恵みの場」であり「イエス様自身」こそ、その見える姿であり、それを「聖体」として、すなわちあらゆる時代のキリスト者へ与えようとするイエス様の姿が描かれています。あらゆる時代のキリスト者が「イエス様のことばと行い」を繰り返すとき、イエス様はその中におられるのです。イエス様とともにいる豊かさは12のかごに用意されているように、さらに多くの人々のために与えられるものなのです。
  2.   弟子たちのことば、群衆への心遣い(12節)
     「もはや日が傾きかけた」ので、弟子たちは集まった人々の食事や「宿」のことを心配してイエス様に語りかけました(ルカ24章のエマオの弟子たちに現れたイエス様を連想させることばです)。ここは人里離れたところ、イスラエルの先祖たちが歩んだ荒野の旅の間、天からのパンがイスラエルの人々の命を支えたように、イエス様はご自身を求め、信じて従ってきた人々に、天からのパン=ご自身を与えようとするのです。
  3.   イエス様のチャレンジと弟子たちのこたえ(13節)
     イエス様は弟子たちの提案に対して不思議なことを命じられます。すなわち、「あなたたちが食べるものを与えなさい」と。「5つのパンと2匹の魚しか、手元にありません」という弟子たちのこたえは正直であり、また現実的であり、人間の力ではこのチャレンジにこたえようもないことが感じられます。イエス様はただ一人でこのことを解決しようとはなさらず、弟子たちをご自分のなさろうとする救いのわざに参加させようとしているのです。弟子たちは、イエス様に命じられたように人々を50人、100人の組にしてすわらせました。イエス様が祝福して裂かれたパンを、人々一人ひとりの手に渡してゆきました。パンは力の泉(詩104:14~15)、神のことば(アモス8:11)、神の恵み全体のしるし(ルカ11:3)、イエス様ご自身(ヨハネ6:35)のシンボル。

【祈り・わかちあいのヒント】
*今、私たちの手元にある5つのパンと2匹の魚は何でしょうか?

三位一体の主日  ヨハネ16:12~16  2019年6月16日

 四旬節から復活祭、そして聖霊降臨という大きな典礼の季節を締め括るのは、今週と来週の2回の主日です。そのテーマは「三位一体」と「キリストの聖体」です。実は、この2つのテーマは救いの歴史全体をあらわすキーワードなのです。したがって、別々の主日ではなく、三位一体と聖体には深いつながりがあるのです。

 この日曜日のテーマである「三位一体」は実はミサとの関連があります。初代教会の人々は「父と子と聖霊」をすでに実感し、信仰を持っていましたが、それが理論化され、体系化されてゆくには時間がかかりました。その歴史のあいだには、キリストの神性を疑問視したり、反対にキリストの人性を疑問視したり、聖霊だけを切り離して強調する人々があらわれたりし、15世紀のフィレンツェ公会議においてようやく神学的な理論が定まりました。三位一体の主日がカトリック教会全体で祝われるようになったのは10世紀ごろからです。そして、三位一体の信仰が教会の教えの根本であることを明確にするために、ミサを「十字架のしるしと三位一体への信仰告白のことば」で始めるという習慣が、ここからスタートしたのです。私たちキリスト者にとってはごく日常的な動作ですが、キリスト者ではない人々にとっては、この動作をしているキリスト者を見る時に新鮮な驚きを感じるようです。

 さて、三位一体の神について論理的な叙述はおよそ不可能です。むしろ、三位一体の特徴を受け止めることに心を向けてみましょう。神さまの本性は「愛」なるお方ですから、三位一体を説明するには「愛」を手がかりにすることがふさわしいと思います。愛は一人では成り立ちません。また自己愛は不完全な愛ですから、愛には対象が必要です。父と呼ばれる存在と、その父の愛を完全に受け入れる子という存在の間に共有される愛こそ、聖霊と呼ばれるお方です。父と子の両者の間だけでは愛は完結しません。愛は、両者が心をあわせて共通の方向に向かう時に完全なものとなります。父と子より出でて神様の愛の対象となる存在、すなわち私たち人間に神様の愛が遣って来られるのです。それが人となった神の子、イエス様であり、イエス様と御父の持つ完全な愛の心を私たちに与えることのために、十字架という完全な従順、祈り、信仰の姿が示されるのです。そして、イエス様の後に従って十字架の道を歩ませるよう力づけ、イエス様のことを絶えず思い起こさせるのが聖霊の働きです。聖霊は私たちの中に留まり、私たちを父と子の愛の交わりの中に引き上げてゆくお方なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*祈りのはじめに「父と子と聖霊のみ名によって」と十字のしるしをするのはカトリックだけで、プロテスタントでは行なっていないのは何故でしょう?