Home > 今日の福音

今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第11主日  マルコ4:26~34  2018年6月17日

 先週から年間主日の典礼季節となりました。今年はB年ですので、年間主日の福音はマルコ福音書が継続的に朗読されます。今日の福音朗読はマルコの4章からです。マルコ福音書の1章21~45節には第1の奇跡物語が収録されています。来週の年間第12主日から第14主日までは、マルコ4章35節から6章6節までの第2の奇跡物語がまとめて読まれます。この第2の奇跡物語は物語風の描写が豊富で、イエス様だけでなく多くの人物が登場します。弟子たち・会堂長ヤイロ・長患いの女性などで、その中心的なテーマはイエス様と出会い、交わりをもつ人々の「信仰」です。

 このマルコ福音書の第2の奇跡物語の直前におかれているのが、今日の福音朗読箇所なのです。この小さなたとえ話はマルコ福音書にのみ登場するもので、「成長のたとえ」と呼ばれることがあります。「春来草自生」(春来たらば、草おのずから生ず)という禅語がありますが「一心につとめていれば、しかるべき時に、自然と草木は芽を出すもの、焦りは禁物、じっとその時を待つ泰然自若の心こそ大事」という意味があるのです。イエス様の成長する種のたとえもまた、神様のタイミングというものの大切さを教えているのではないでしょうか? 時々、私たちは焦ってしまいます。「神様、神様、私たちがこんなに困って、こんなにお祈りしているのに、何故何もお答え下さらないのですか?」という思いにとらわれたりしてしまいます。しかし、神様の方からすれば、「こんなにこれまで、多くのことを与えて来たのにどうしてそれを生かさなかったのか?」と神様をやきもきさせていたのかも知れません。神様の時は「永遠の今」、すなわち遅すぎることも早すぎることもない、神様だけがなしうる絶妙の時、タイミングがあると信じることが大切なのです。

 もう一つのたとえはからし種のたとえです。「地上のどんな種よりも小さい」といわれる種が、やがて「空の鳥が巣をかけるほど大きな枝をはる」ように成長してゆくのです。神様が私たちの心に蒔こうとされているものは目立たぬ小さなものですが、それは成長してゆくものなのです。その種を枯らしたり、空の鳥に奪われたり、茨や雑草で覆ってしまわない限り、私たちの心にどっしりとした根を張るのです。わずかなきっかけ、小さな出会いが、やがてイエス様を通して、父なる神の大きな愛につながってゆくのです。このたとえ話のあとに登場する様々な人々は、病気をはじめとする苦しみの中にあって、イエス様と出会いました。そしてそれぞれの人は、その人の持つ信仰によって、「奇跡」に出会うのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの心に蒔かれた小さな種とはどんなことでしょう?
*イエス様に出会えたことは小さな奇跡では……?

年間第10主日  マルコ3:20~35  2018年6月10日

 復活節・聖霊降臨に続く特別な典礼の季節が終わり、再び年間主日が王たるキリストの祭日(年間主日の最後)まで続きます。さて、今年は復活祭が早かったため年間主日が第10主日からとなりました。今日の福音朗読はマルコ福音書3章からです。マルコ福音書らしい率直さで、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」(21節)に当時の人々のイエス様の宣教活動に対するうろたえぶりが記されています。

 さらには、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、イエス様をベルゼブル(悪霊の頭)に取りつかれていると言ったり、悪霊の頭の力を使って悪霊を追い出していると言いふらしたりしていました。人間が、自分が理解できないことを悪くとらえたり、非難したりしがちなのは、昔も今も変わらないことのようです。

 今日の朗読箇所の後半にはもう一つのエピソードが語られています。それは、イエス様の母と兄弟たち(ヘブライ語には従兄弟を表す言葉がなく、近い親戚はみな兄弟と表現されていました)が訪ねてきたことです。その時、大勢の人々がイエス様を取り囲んでいたために、自分たちが訪ねてきたことを、人を使って知らせています。それは「わたしたちは親戚だから特別扱いするように」ということを暗示しているようです。しかし、イエス様の答えは明快であるとともに当時の常識を超えています。イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と言い放ち、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(34-35節)と宣言されるのです。

 わたしたちは人に出会うとき、その人の何に注目しているでしょうか? 時には経歴や学歴、あるいは社会的な地位や役職などによって、判断することもありますが、イエス様はこの地上における地位や役職にはこだわりがありません。イエス様にとって大切なのは、いつも、「神のみ心」なのです。「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)と。イエス様にとっては、アブラハムの子孫であるという血筋、モーセの律法を学んだという学歴が大切なのではなく、「知っていること」よりも「行うこと」が優先されているのです。その意味では、本当に知っているならば、必ずや行い、ことば、祈りになって表れるものなのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしにとって父母、兄弟姉妹とはだれのことでしょうか?
*イエスが言われる父母、兄弟姉妹とはだれのことでしょうか?

キリストの聖体  マルコ14:12~16、22~26  2018年6月3日

 三位一体の主日に続いて、神様の救いの計画全体をシンボリックに表す聖体の主日が祝われます。三位一体が理論的に思えてしまうのに比べて、聖体は私たちにとって目に見える、わかりやすい、親しみやすい教えだと思います。

 今度の日曜日の福音の箇所は、マルコから最後の晩餐の記述が朗読されます。最後の晩餐はたくさんの画家、芸術家によってテーマとされております。すでにカタコンベの中にその痕跡があります。またモザイクによるもの、フレスコ画、そしてたくさんのキャンバス画に。初期のものはキリスト以外の人物は皆同じような表情で単純なものでした。そして、そのテーマは最後の晩餐=聖体の制定が中心メッセージでした。後世のものにはユダの裏切り、各弟子たちの驚きや不安、それらが生き生きと描写されております。

 イエス様がこの晩餐を大変重要に考えられていること、入念に計画しておられることがマルコの記述からわかります。この晩餐を行なった家は実はマルコの家であったという説もあるのです。「水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。すると用意の整った二階の広間を見せてくれる」とは、イエス様がこの晩餐を以前から計画しておられたことを感じさせてくれます。最後の晩餐、多くの弟子たちにとってはいつものように先生と過ぎ越しの食事をするという単純なことと思っていたのに、その日のイエス様はいつも以上に荘厳に荘重に語られます。パンを祝福するだけでなく「これは私の体=私自身である」ことを宣言されます。これは新しい過ぎ越し、新しい契約のためにご自身がいけにえの小羊であること、いよいよその時が来たことを表します。

 イエス様は出会った人々、弟子たちを愛し続けているしるしとして、彼ら信じる人々に、彼らを生かす形でご自分のシンボルを遺して下さったのです。これから弟子たちの目の前には、十字架という、受け止められないような「死」が訪れてきます。しかし、目に見えなくなってもイエス様は彼らを愛し続けていることを、このご聖体を与えることによって示されたのです。ご聖体、それはパンの姿になっても私たち一人ひとりを訪れて下さるという、イエス様の決して裏切られることのない約束なのです。「キリストの体」、それは、このパンはキリストご自身ですということと、これを受け取るあなたはキリストの体である教会の一員ですという、両方の意味が込められているのです。このことに対して、私たちは「アーメン」(その通りです。そしてそのようになりますように)と答えるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*二人の弟子たちは「イエスの晩餐」の場所を探しに行きました。わたしたちにとってイエスとの語らい、交わりの場所はどこにありますか?

三位一体の主日 マタイ28:16~20  2018年5月27日

 聖霊降臨の主日の後、三位一体の主日と聖体の主日という神学的なテーマをもった日曜日が祝われます。三位一体ということはすでに聖書にそのことが現れていますが、カトリック教会の神学の中でも大変難しいテーマであり、15世紀のフィレンツェ公会議においてようやく神学的な理論が定まったという経緯があります。10世紀頃、三位一体の主日が全世界の教会で祝うべき祝日となった頃から、ミサを三位のみ名を唱えながら十字架のしるしをして始めるという形が広まりました。三位一体を聖霊降臨の後に祝うのは、三位の神が救いの歴史の始まりであり、また完成の到達点であることを示しています。

 すでに古代の教父オリゲネスという神学者は救いの歴史を「父から父へ」という一言で表しています。わたしたちは、この三位一体を理論として学ぶことや人間の理性で理解することよりも、この三位一体の神様の愛に包まれて生きることを目指しているのです。

 今日の福音書はマタイ福音書の最後の部分です。そこには弟子たちを全世界に派遣するキリストのことばが語られています。その特徴は、①すべての民をわたしの弟子にしなさいということ、②父と子と聖霊のみ名による洗礼を授けること、③世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるということに要約されます。
 この箇所によれば、宣教とはイエス様と人々が「師と弟子」の関係となること、すなわち、イエス様に学びながら、イエス様と行動をともにすること(=世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる)を意味しています。イエス様の弟子になることは、父と子と聖霊のみ名による洗礼を受けることによって始まります。父と子は一つであり、すべてのことを与え合っておられます。それゆえ、わたしたちを父と子の交わりに招き、わたしたちを父と子の親しい関係に導くために、聖霊がわたしたちのところに父と子から送られてくるのです。この聖霊の導きを通して、キリストに出会い、従い、学び、歩んでゆこうとする人々が弟子たちと呼ばれるのです。興味深いのは、この箇所において、イエス様からこのことばを聞いている弟子たちの中に、「疑う者」もいたと記されていることです。理論として考えれば疑いは尽きることはありません。理論ではなくとりあえず歩み出すことによってわたしたちの信仰は始まるのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス・キリストの弟子であることがわたしたちの日々の生活の中でどのように実行されているでしょうか? わたしたちの祈り、ことば、行いは?

聖霊降臨の主日 ヨハネ15:26~27、16:12~15  2018年5月20日

 復活祭から50日目に聖霊降臨を祝います。これは、旧約の歴史の中で過越祭から50日目に律法が神の民となったイスラエルに与えられたことを祝う、あの五旬祭と重なります。旧約の時代には神の民となったのはイスラエルという一民族だけでしたが、新約の時代には、すべての国の民が神の民となる道がイエス様によって開かれ、使徒たちの働きを通してそれが実現し始めるのです。

 第1朗読である使徒行伝において、聖霊降臨の様子が語られています。聖母マリアと使徒たちの集まっているところに聖霊が「炎のような舌」の姿で下りました。その時、全世界の各地からエルサレムに集まっていた人々は、各々の故郷のことばで使徒たちの語ることばを聞きました。バベルの塔の事件以来、人類はことばの障壁のために分け隔てられていましたが、聖霊はそのこころの壁を突き抜けて人々に福音に耳を傾けさせたのです。

 福音書においては、聖霊が「真理の霊」・「弁護者」・「告げる方」としてイエス様の口から語られています。聖霊は聖書の中でいろいろな姿で描かれています。「鳩」・「火」・「水」・「息」・「風」・「舌」などです。これらのものに共通するもの、それは「命」のシンボルということです。火や水がなければ生きられません。生きているということは「息をしている」ことであり、鳩はあのノアの洪水の時、地上が再び「人間が生きることのできる世界」となったことを告げ知らせました。今のわたしたちにとって聖霊をイメージするならば「気」ということばはどうでしょうか? 「気」ということばはいろいろな時に使われています。「元気」「勇気」「ヤル気」「気が抜けたような」「気がつかないで」「気をつけて」「気にしないで」とかなりの用法があります。では「気」とはなんでしょうか? とあらためて考えてみると「これこれである」と説明することが難しいことばではないでしょうか? それこそ「雰囲気」で使っていませんか? 目には見えないけれどわたしたちが自然にそうするようになる「気分」・「気持ち」はどこから来るのでしょう。わたしたちが「やる気」になるのはどんな時でしょう。

 聖霊は父と子の愛の交わりであると言われます。目には見えないけれど愛の絆を持った者同士には「思い・ことば・行い」が通じ合っているのです。相手がそこにいなくてもその相手のことをいつも思い、そのために語り、そのために行うのです。聖霊というお方は父と子とわたしたちを結ぶために父と子から送られてくるお方なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちが「本気」になって取り組まなければならないことは何でしょうか?