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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

待降節第1主日 ルカ21:25~28、34~36  2018年12月2日

「心が鈍くならないように注意しなさい」

 今日から主の降誕を迎える準備の時である待降節が始まります。待降節は二重の特徴をもっています。それは、まず神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祝祭のための準備の期間という意味です。そして、さらにその追憶を通して終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもあります。この2つの理由から待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになるのです。

 待降節のこのような性格は、4つの主日の朗読箇所にも反映しています。

待降節第1主日
ルカ21:25~28,34~36 エルサレムの滅亡と終末
「目覚めて時を待つ」
「喜びをもって時を待つ」
待降節第2主日
ルカ3:1~6 洗礼者ヨハネの宣教 Ⅰ
「主の道を備えよ」
待降節第3主日
ルカ3:10~18 洗礼者ヨハネの宣教 Ⅱ
「それでは私たちは何をしたらよいのでしょうか?」
待降節第4主日
ルカ1:39~45 マリアのエリサベト訪問
「主の御母が私を訪れて下さるとは何という栄光でしょう」

 待降節第1主日の朗読は、エルサレムの包囲(20~24節)のすぐあとに続く箇所です。エルサレムの滅亡が、人の子の来臨の1つの段階であったのは、教会が万民に門を開き、1つの民族、血族、神殿を超える宣教と礼拝を始めたからであり、それゆえ「恐れずに、頭を上げ、解放が近づいた」ことを喜ぶのです。

 ルカがこのようにエルサレムの滅亡をキリスト教の新しい始まりとして、つまり全世界への宣教への出発と理解していることは大切なことです。当時の教会には、ユダヤ人こそキリストの教会において主流を占めるものであり、律法を知らない異邦人からの改宗者を軽視するという「会堂の誘惑」がありました。これを私たち現代の教会に当てはめてみると、長い信仰生活を送っている人たちに対する警告となります。いつのまにか自分たちのやり方が最高と思い込み、新しい人々や新しい試みを排除しようとする傾向が見られるのです。
「新しい酒は新しい革袋に」というキリストの警告を忘れずに待降節を過ごしましょう!

【祈り・わかちあいのヒント】
*エルサレムの神殿さえも滅びました。私たちの信仰は、建物としての教会ではなく、イエス様という、生きているお方の中に成り立っていることを信じますか?

王であるキリスト ヨハネ18:33b~37  2018年11月25日

「真理とは何か?」

 いよいよ年間主日も最後です。典礼暦B年も王たるキリストの主日を祝って締めくくられます。さて、福音朗読の箇所はヨハネ18章です。ローマ人でありその当時の全世界といっても過言ではないほどの領土を持つローマ帝国の総督としてユダヤの地を治めていた人物、すなわちピラトとイエス様の姿が語られます。ローマ総督はユダヤの王よりも権限があり、イエス様だけでなくイスラエルという民族、ユダヤという国の生命を握っていた人物です。イスラエルの民衆はイエス様をメシア王として理解していました。もしイエス様がイスラエルの解放のため武器をとってローマ帝国と戦えと言えば、民衆は喜んで従ったことでしょう。しかし、かろうじてローマ帝国に生存を許されているユダヤ国家の指導者たちにとっては、大変危機を感じさせることでした。当時の政治的指導者を恐れず、宗教的な指導者のことばよりもナザレのイエスのことばを喜んで聞く民衆の姿を見るにつけ、彼らは「この人はやがてユダヤの新しい王になると言い出すだろう」「もし、本人がそう言わなくても民衆たちがナザレのイエスを担ぎ上げて暴動を起こすかもしれない」「そうなってからでは遅い、多くの人々が犠牲になるよりも一人の人の犠牲ですむならば」、と思ったのです。

 ユダヤ人の大祭司、長老たちはついにイエス様をとらえ、なきものにしようと裁判に掛けました。しかし、彼らには政治的な理由で死刑にすることは出来ません。そこでピラトのもとに連れてゆき、ローマの皇帝に叛旗を翻す人物、ローマの支配を認めない王となろうという告発がなされたのです。しかし、ピラトもナザレのイエスの姿にそのようなものを見出すことが出来ず苦慮します。罪のないこの人をなぜ殺したがるのか、憎くもないこの人になぜ自分が死刑を宣告しなければならないのか。この裁判のシーンでは、裁かれているのはイエス様ではなく、ユダヤ人とイエス様の間に立たされて板ばさみとなっているピラト自身なのです。ピラトは、この告発が一部の人々のねたみや疑いの心から出ていることを感じていました。しかし、その人々に煽動されて暴動寸前になっているイスラエルの民衆も恐ろしいものです。ユダヤの地で暴動が起こればピラト自身も失政としてマイナスの評価になってしまいます。ついにピラトは保身のため、とりあえず事態を鎮静化するため、ユダヤ人の気持ちをなだめるためと、イエス様を殺すことを認めてしまいます。決して心からではなく、心ならずも妥協してしまいます。私たちも、心ならずもイエス様を悲しませるようなことをしてしまいます。それでもイエス様は、進んで十字架を私たちのために担って下さるお方、愛の勝利と栄光を示す王なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの中にピラトのような姿がありませんか?

年間第33主日 マルコ13:24~32  2018年11月18日

「いちじくの木から教えを学びなさい」

 年間主日も今日が最後となり、来週は1年の典礼暦を締めくくる王であるキリストの祭日が祝われ、翌週からはC年の待降節となり、また新しい典礼暦が始まります。今日の福音はマルコ福音書の13章が朗読されます。この13章は聖書学者たちによって「マルコの小黙示」と呼ばれることがあります。

 エルサレムに入城したイエス様に最期の時が近づいています。神殿に来た弟子たちがその神殿の見事な建築を褒め称えていると、イエス様がエルサレムの将来について語りだします。イエス様の言葉はやがて、西暦70年、ローマ皇帝ティトゥスによるエルサレム陥落となって実現します。エルサレムの神殿が崩壊してしまったことは初代教会にとって二重の意味を持つことになりました。一つは、旧約の時代の完全な終わりであるということ、もう一つは、神様の臨在はエルサレムの神殿に限られるものではなく、復活したイエス様の共同体、すなわち教会にあるという確信が深められたことです。今日の朗読箇所はそれに続くもので、世の終わりの時のありさまが黙示文学的な表現で語られています。天変地異や戦乱、災害はいつの時代にも起こるものであり、そのような絶望的な災いにより終末がおとずれるのではないかと考えられることもありますが、しかし、ここで大切なのは、それが世の終わりではないこと、世の終わりとは、すなわち破壊の時ではなく、救いの完成の時であるということを理解することなのです。

 イエス様ははっきりと言われています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と。御子さえも惜しまれずこの世に遣わされた御父が、人間を滅ぼすためではなく、救うために世を完成されることへの信頼を失わないようにと、イエス様は強調されているのです。さらに、この世の完成の時がいつであるかについては父なる神様に委ねられていることなのです。

 それゆえに、その終わりの時を知らない私たちはいちじくの木の教えから学ぶことが大切なのです。それは「時のしるし」を読み取ることです。世の終わり、救いの完成の時は、「今」という時間の積み重ねの中に始まっていることなのです。今という時を有意義に生きる人でなければ、その時を迎えると平静さを失ってしまうのです。「すべてに時がある」と伝道の書(新共同訳聖書「コヘレトの言葉」3章)は語っていますが、私たちに生まれてきた時があるように、私たちがこの世から離れる時も必ずやってくるのです。しかし、それは「人の子」が近づいている時であることを決して忘れてはならないのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*あなたはどのようなことが「時のしるし」だと思いますか?

年間第32主日 マルコ12:38~44  2018年11月11日

「この人はだれよりも多くを入れた」

 今日の福音朗読はマルコ福音書の12章からです。エルサレムの神殿の境内においてイエス様は話しておられます。ファリサイ人や律法学者たちの欺瞞と真実について語られたその直後に小さな出来事がありました。それはイエス様以外の人々には目に触れることのないようなささやかな、しかしイエス様にとっては重要な出来事でした。

 エルサレムの神殿には毎日、数多くの人々がやってきます。そして自分の願い事をかなえて戴こうといけにえを捧げたり、献金をしたり、毎日が日本で言えば初詣の時のような混雑です。現代の私たちには分かりにくいことですが、多くの献金をする人々のためにはラッパが吹き鳴らされたり、その行為が人々の目を引くように演出されていました。まさかそんなことをと思うかもしれませんが、今でも日本のお祭りなどの寄付金が金額入りで掲示されたり、ということを考えると、今も昔も変わらないことであるのかもしれません。ヨーロッパの教会でもパトロンになったメディチ家の紋章が教会の天井を飾っていたり、絵画の中に聖人にまざってパトロンが描かれていたり、また現代の日本の教会でも教会の聖堂の建築に当たって寄付をしてくれた人々の名簿を壁に飾っていたり……人間の名誉欲には限りがないようです。

 お釈迦様の物語にも貧者の一灯というエピソードがありますが、イエス様は貧しいやもめが近づいてきて、恥ずかしそうに、献金をそっと投げ入れた姿を見て、弟子たちを呼び集められました。「見なさい。このやもめは誰よりも多くを入れた」と。弟子たちの中には「たった2レプタなのに」と思っていた人もいたかもしれません。しかし、イエス様は叫ぶように、宣言するように語られます。「他の人は有り余っている中でその一部を入れたに過ぎない。このやもめはもっているすべてを捧げた」と。この献金を入れたやもめ自身さえも「こんなわずかなもので申し訳ありません」という気持ちだったと思います。しかしイエス様は見落としません。その人の本当の気持ちとその人の行いを知っています。神様により頼むほかすべを持たない人の叫びや願いを最優先される父なる神の御心をイエス様は語られます。「知恵ある人、賢い人には隠し、これらの人々、幼子に示されること、これが父の御心である」と宣言されています。私たちは何を捧げますか、私たちはどんな心でそれを捧げていますか? イエス様は私たちについてなんと言われるのでしょうか?

【祈り・わかちあいのヒント】
*持っているものすべてを差し出してもよいと思えるのは、どんな時、何のため、誰のためでしょうか?

年間第31主日 マルコ12:28b~34  2018年11月4日

「あなたは神の国から遠くない」

 今日の福音朗読はマルコ福音書の12章からです。エルサレムに来られてから、ファリサイ人やサドカイ派、ヘロデ党の人々などがイエス様をおとしめようと様々な議論を仕掛けてきます。マルコ福音書にはそのような議論・論争に関して4つのエピソードを取り上げていますが、今日の箇所は他の人々のような悪意に満ちた論争ではなく、神様の教えの真髄を理解している1人の律法学者とイエス様の受け答えがとても興味深く思われます。

 旧約聖書の律法と呼ばれる掟は613もあり、またその一つ一つが、細則や実施にあたっての施行規則というように次から次へと細分化されてゆき、とても複雑でわかりにくいものになっていました。それゆえ、日常生活においても「これは律法や掟に適うものか、反するものか?」ということについて、ラビや長老たちの意見や指導に従わなければなりませんでした。その反動として、「要するに律法とは?」あるいは「律法の中で最も大切な掟は?」と、全律法の真髄を求める傾向がありました。しかし、律法や掟のどれ一つもゆるがせには出来ないはず、と考え、「どの掟が最も重要であるか?」についても意見は様々だったようです。

 イエス様の答えはあっけないほど明確です。「神を愛しなさい」と。この答えはイスラエルの人々が毎朝唱えていた祈りのことばなのです(申命記6:4以下参照)。イエス様の答えはもう一つの掟も同じ重さであると宣言します。隣人を愛することも全律法の精神を表すものなのです(レビ19:18)。イエス様は古い律法の文言を組み合わせることによって、この「もっとも重要な掟は一つの掟の両面であり、新約の時代の掟となる」ことを指摘しているのです。質問した律法学者は、ユダヤ人を代表する信仰者でありながら、新約の信仰を受け入れ始めているように見える態度です。彼は「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することはどんな献げ物やいけにえよりも優れています」とイエス様の意図を正しく受け止めています。それゆえ、イエス様も「あなたは神の国から遠くない」と彼を認めています。しかし、このイエス様の答えにはもうひとひねりがあるのでは? とも思います。「神の国から遠くない」状態にとどまらず神の国に入るためには、「その理解していることを行うこと」が必要なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちはどのようなことを議論していますか?
*正しいとは思うけれどもなかなか実行できないことはなんですか?