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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

年間第15主日 マルコ6:7~13  2018年7月15日

 イエス様は宣教活動の最初から、弟子たちを呼び集め、ご自身の教えを間近なところで学ばせ、寝食をともにし、福音のための働き手を育てて行きました。今日の福音書において、イエス様はその弟子たちをいわば「教育実習」のように派遣して行きます。

 イエス様のこの弟子たちの派遣の特徴は、次のとおりです。①「二人ずつ組にして」派遣され、②杖とサンダル以外は何も持たず、③悪霊に打ち勝つ権能を与えられたこと、④迎え入れてくれる家にはとどまり、⑤受け入れられなければ「足の裏のちりを払う」こと。⑥弟子たちは出かけて行き、悔い改めさせるために宣教し、⑦悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしたこと。

  1. 「二人ずつ組にして」:イエス様は宣教活動が共同体の協力の下に行なわれるものであることを示唆しています。仏陀が弟子を遣わす時と好対照です。
  2. 杖とサンダルはモーセの姿、エルサレムの神殿を訪れる巡礼者のシンボルと重なります。宣教とは、すでに行く先の人々の心の中に働きかけておられる神様と出会うためという姿勢が大切なのです。
  3. 悪霊に打ち勝つ権能:人々や世の中を支配している悪しき考え、慣習や制度、さらには妄想、風評、偏見というような「この世が是としているけれど間違っているもの」に対して、神の愛、神の望む世界(神の義)を実現するための力が弟子たちに与えられたのです。
  4. 「迎え入れてくれる家」:行く先にはかならず神を信じ、神様からの働きかけを待っている人々がいることを暗示しています。
  5. 「足の裏のちりを払う」:受け入れない人々に対しては神様もその人々を受け入れてくださらないことを示す預言的な行為です。ルカ10章11節には類似箇所に「わたしたちの足についているこの町のちりさえも払って、あなたたちに残そう。しかし、神の国が近づいたことは知っておくがよい」と述べるようにイエス様は語られています。
  6. 弟子たちの宣教は「悔い改めさせる」ための宣教と語られています。悔い改めとは単なる改悛ではなく、新しい生き方への方向転換の意味での回心です。
  7. 悪霊を追い出し、油を塗って病人をいやす。初代教会の活動を暗示する使徒たちの働きです。悪霊とは社会にはびこる悪例、悪癖、慣習、社会の病、病気とは人間を苦しめるものの象徴です。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちが人生の旅路において、携えるべき「杖とサンダル」とは、何でしょうか?

年間第14主日  マルコ6:1~6  2018年7月8日

 今日の福音朗読では、イエス様のナザレへの訪問の記事が語られていました。マタイ福音書(13:53~58)にも同様の出来事が語られていますが、マルコ福音書はより詳しく報告しています。マルコ福音書を注意深く読んでみると、このナザレへの訪問はイエス様の宣教活動の転換点になっています。

 宣教活動の初期、イエス様は弟子たちとともにガリラヤ中をめぐり歩き、方々の会堂で教えを述べておられました。しかし、このナザレの会堂を最後にして、それ以後は「会堂」で教えを述べることをなさいません。つまり、イエス様はナザレの会堂における人々の「驚くべき不信仰」を体験されてからは、二度と「会堂」には足を踏み入れないのです。マタイ福音書とマルコ福音書は「会堂」(=教えの固定化のシンボル)を全ユダヤ人の不信仰の典型とみなしていたのでしょう。

 ナザレの人々がイエス様をすなおに受け入れることができなかったのは何故でしょう? 彼らは「大工ではないか? マリアの息子ではないか? その兄弟(当時はいとこのような近い親族も兄弟姉妹と呼んでいました)を知っている、一緒に住んでいるではないか?」と口々に叫んでいます。つまり、「これまで知っていたイエスの姿」にこだわるがゆえに「眼の前にいるイエス様」を受け入れられないのです。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、人間が陥りがちな偏見を「イドラ」と呼んで警戒するように述べていますが、ナザレの人々はまさに「会堂のイドラ」にとらわれていたのでしょう。つまり、人の子としてのイエス様のことを幼いころから知っていると思い込んでいたからこそ、神の子としてのイエス様の姿を受け入れられなかったのでしょう。マタイとマルコがこのエピソードを重要視しているのは、私たちにとっても大切な意味があるからです。私たち自身にも「ナザレの人々と同じ不信仰」が潜んでいるからです。私たちは「聖書について、教会の教えについて、この教会のことについて」知っていると思うほど、イエス様が今日、ここで、私たちになさろうとしていることを受け入れなくなるのです。聖書には「今日、未声を聴くこと」の大切さが繰り返し述べられているのです。

 福音書の中で、「イエス様が驚かれた」というエピソードが二つあります。一つは今日の箇所で「故郷ナザレの人々の不信仰に驚かれた」ということ、もう一つは「異邦人である百人隊長の信仰に驚かれた」(ルカ7:1~10)ことです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちは、どちらの意味でイエス様を驚かせるでしょうか?
 私たちの信仰、それとも不信仰?

年間13主日  マルコ5:21~43  2018年7月1日

 今日の福音の朗読箇所は、会堂長ヤイロの娘(12歳)の死からのよみがえりと12年間病気に苦しめられていた婦人のいやしのエピソードです。この二つの奇跡はガリラヤ宣教の活動の中でも注目に値するもので、マタイ、ルカもこの奇跡について記述していますが、マルコ福音書の描写がとりわけ生き生きとしています。マルコだけが会堂長の名前「ヤイロ」を記しています。会堂長といえばその町の名士であり、有力者でした。しかし彼は自分の地位や名声を使ってイエス様を呼び寄せるのではなく、自分自身で、一人の父親の姿でイエス様に近づき、足もとにひれ伏し、切に願います。娘が死にかかっているので、娘に手を置いて下さい、そうすれば娘は助かるでしょうからと懇願します。イエス様もすぐに「それでは一緒に行こう」と答えて、家に向かい始めました。すると大勢の人々がついて来て、まわりに群がりました。その中にもう一人イエス様のあわれみと力を必要としている女性がいたのです。

 25節からこの病気の婦人が登場して、ヤイロの家に向かう道行が中断されます。群衆の中にいた彼女はそっと手を伸ばしてイエス様の服のすそに触れます。そうすれば、そうするだけで自分はいやされると信じていたからです。イエス様は突然立ち止まり、「誰かが私に触れた」と言い出し、その人を捜し始めます。弟子たちやヤイロは驚き、またなかばあきれたように言い出します。「先生、こんなに大勢の人たちがついて来ているのです。誰かが触ったことに不思議はないと思いますが……」。イエス様は「そうではない、誰かが私の助けを求めて、触れようとしたのだ」と答えます。この女性は自分の身に起こった不思議ないやしを感じて、怖れおののきながらも「私です」と名乗り出ます。イエス様はこの人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と宣言なさいます。彼女の身に起こったことが確かにイエス様の恵みによるものであることが強調されています。

 ヤイロの家に向かう途中、このような出来事のあったために、ついにヤイロの家から悲報が届きます。「娘は息をひきとりました。もう先生においでいただくにはおよびません」と。弟子たちやヤイロはがっかりしたことでしょう。「なぜ、先生はこんなところで道草を食ってしまったのか……」と。イエス様はヤイロに言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。まもなくヤイロの家に着くと、イエス様は事もなげに言われます。「娘は眠ってしまったのだ、私は彼女を起こしに行く」と。人々のあざけりや不信を何とも思わず、3人の弟子と父母だけを連れて部屋に入ります。そして一言「タリタ、クム」(娘よ、私はあなたに言う、起きなさい)と。

【祈り・わかちあいのヒント】
*何故、すぐに答えて下さらないか、と思う時にも信じますか? 祈りますか?

洗礼者聖ヨハネの誕生  ルカ1:57~66,80  2018年6月24日

 今日は洗礼者聖ヨハネの誕生の祝日です。数多いカトリック教会の聖人の中でも1年に2回も祝われるのは洗礼者聖ヨハネ(6月24日と8月29日)、聖ヨゼフ(3月19日と5月1日)、そして聖母マリア様です。この3人は皆、イエス様の誕生・出現と深いかかわりがある方々です。

 イエス様も洗礼者聖ヨハネについてはたびたび言及しておられます。「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11)。ヨハネこそ「現れるはずのエリヤである」(同14節)とまで、彼の偉大さ、卓越した存在をほめたたえています。洗礼者聖ヨハネの使命は「イエス様の先駆者」「荒れ野に叫ぶ声」「主の道を直くすること」でした。それゆえに、イエス様より先にその誕生が天使ガブリエルによって父ザカリアに告げられ、母エリザベトの胎に宿ります。そしてその後、ナザレトのおとめマリア様に天使が現れ、救い主の母となることを神が望まれていることを告げたとき、親戚のエリザベトが身ごもったことが知らされ、マリア様はユダの町、アインカリムへと向かい、二人の母はめぐり合います。イエス様と洗礼者聖ヨハネはお母様のお腹の中でこうして出会っているのです。

 さて、その聖ヨハネの誕生の場面が朗読されました。その名は「ヨハネ」と名づけられます。「ヨハネ」とはヘブライ語で「ヨハナン」あるいは「イェホハナン」と発音され、「神はいつくしみ深い」という意味を持つ名前です。そしてこの幼な子の誕生にあたっての不思議な出来事はザカリアの近所の人々からユダヤの全地方に伝わってゆきました。それを聞いた人々はこの子どもの将来に希望を抱きます。「いったいどんな人になるのだろうか?」と。一つの家庭の出来事が近所の人々、やがて全ユダヤの人々の希望になってゆきました。子どもたちの誕生、洗礼、すべては「神のいつくしみ深さ」から与えられたものなのです。この子どもたちがどのようなキリスト者となってゆくのか、神様はこの幼な子の育成を私たちに委ねられたのです。この子どもたちは私たちの祈る姿を見て、祈りを覚え、私たちの奉仕する姿を見て、やがて奉仕者となるのです。幼な子とともに私たちも成長してゆかなければなりません。やがて、彼らは洗礼者聖ヨハネと同じように社会の荒波、荒れ野に出かけてゆかなければなりません。彼らが「主の道をまっすぐに生きる信仰者」として成長できますように祈りましょう。

【祈り・わかちあいのヒント】
*洗礼者聖ヨハネの偉大さはどのようなところにあると思いますか?
*私たちは誰かの叫ぶ声として、生きているでしょうか?

年間第11主日  マルコ4:26~34  2018年6月17日

 先週から年間主日の典礼季節となりました。今年はB年ですので、年間主日の福音はマルコ福音書が継続的に朗読されます。今日の福音朗読はマルコの4章からです。マルコ福音書の1章21~45節には第1の奇跡物語が収録されています。来週の年間第12主日から第14主日までは、マルコ4章35節から6章6節までの第2の奇跡物語がまとめて読まれます。この第2の奇跡物語は物語風の描写が豊富で、イエス様だけでなく多くの人物が登場します。弟子たち・会堂長ヤイロ・長患いの女性などで、その中心的なテーマはイエス様と出会い、交わりをもつ人々の「信仰」です。

 このマルコ福音書の第2の奇跡物語の直前におかれているのが、今日の福音朗読箇所なのです。この小さなたとえ話はマルコ福音書にのみ登場するもので、「成長のたとえ」と呼ばれることがあります。「春来草自生」(春来たらば、草おのずから生ず)という禅語がありますが「一心につとめていれば、しかるべき時に、自然と草木は芽を出すもの、焦りは禁物、じっとその時を待つ泰然自若の心こそ大事」という意味があるのです。イエス様の成長する種のたとえもまた、神様のタイミングというものの大切さを教えているのではないでしょうか? 時々、私たちは焦ってしまいます。「神様、神様、私たちがこんなに困って、こんなにお祈りしているのに、何故何もお答え下さらないのですか?」という思いにとらわれたりしてしまいます。しかし、神様の方からすれば、「こんなにこれまで、多くのことを与えて来たのにどうしてそれを生かさなかったのか?」と神様をやきもきさせていたのかも知れません。神様の時は「永遠の今」、すなわち遅すぎることも早すぎることもない、神様だけがなしうる絶妙の時、タイミングがあると信じることが大切なのです。

 もう一つのたとえはからし種のたとえです。「地上のどんな種よりも小さい」といわれる種が、やがて「空の鳥が巣をかけるほど大きな枝をはる」ように成長してゆくのです。神様が私たちの心に蒔こうとされているものは目立たぬ小さなものですが、それは成長してゆくものなのです。その種を枯らしたり、空の鳥に奪われたり、茨や雑草で覆ってしまわない限り、私たちの心にどっしりとした根を張るのです。わずかなきっかけ、小さな出会いが、やがてイエス様を通して、父なる神の大きな愛につながってゆくのです。このたとえ話のあとに登場する様々な人々は、病気をはじめとする苦しみの中にあって、イエス様と出会いました。そしてそれぞれの人は、その人の持つ信仰によって、「奇跡」に出会うのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちの心に蒔かれた小さな種とはどんなことでしょう?
*イエス様に出会えたことは小さな奇跡では……?