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豊多摩南宣教協力体主催 「信仰年」企画
  宣教フォーラム2「明日の教会をめざして ~ 新しい福音宣教に向けて」

2013年11月17日(於:カトリック関町教会)

 2012年11月の宣教フォーラム1「第2バチカン公会議before/after」に続く宣教フォーラム2 は2013年11月17日(日)13時半~16時、関町教会聖堂で開催されました。
 テーマは「明日の教会をめざして~新しい福音宣教に向けて」。
 講師はムケンゲシャイ・マタタ神父様(淳心会・オリエンス宗教研究所所長)とアガスティン・サリ神父様(イエズス会・上智大学神学部准教授)。お二人とも1960年代生まれと第2バチカン公会議後の世代で、また、マタタ神父様はコンゴ民主共和国、サリ神父様はインド出身と、非ヨーロッパ圏に広がる現代の若い教会を代表する方々です。
 諸宗教神学がご専門のマタタ神父様は「第2バチカン公会議後の教会のあり方―互いに仕え合う喜び」、社会学的なアプローチから地域紛争と宗教について研究されているサリ神父様は「現代社会の変容の中の宗教の課題と宣教」と題して講演。 以下、要旨です。

第2バチカン公会議後の教会のあり方 ―互いに仕え合う喜び―
J・P・ムケンゲシャイ・マタタ師

 第2バチカン公会議が行われた目的は、 キリストによってもたらされた救いの喜びを現代社会の人びとにわかる方法で説明し表現すること、また現代社会の中の教会の位置付けを明らかにすることでした。教会は世界の人びとの一致と平和をもたらすものであり、神の救いを指し示す道具、シンボルです。教会は、これまでの排他的な姿勢で閉じこもるのではなく、他教会、他宗教に対して寛容になること、そして世俗化された世界を受容し、世界の真っただ中で福音を伝えることを任務とするようになりました。教会の中心も、かつてのヨーロッパ・北米だけでなく、アジア・アフリカ・南米などに移行し、まさに多元的・普遍的な教会へと変貌してきました。
 特に、教会のあらゆる分野において信徒の役割、価値と責任、信徒の積極的な福音宣教が強調され、典礼が各国の国語で行われるようになりました。典礼で司式司祭と参加者との間に生まれてきた境界線が終焉を迎えました。典礼行為は司式者を含めた神の民(信者)全体と神との交わりをもたらすものと考えられるようになり、従来の縦軸構成から、神の民すなわち洗礼を受けたすべてのキリスト者相互の横軸構成へと移行し、信者が持っている王、祭司、預言者の共通祭司職が強調されました。同時に福音宣教を神の民(信者)全体の任務とするようになりました。また、公会議は、教会の任務を果たすために、地方の教会に大きな役割を与えて状況の変化を認識させ、地方の教会が独自の文化のなかで成長していくことを勧めながら、地域の優先課題と宣教方針を探るように提示しました。
 第2バチカン公会議の『教会憲章』に基づく、 教会の普遍的な性格の自覚は、独立したばかりの若いアフリカ諸国の教会に大きな変化をもたらしました。公会議以前の教会移植や適応などといった宣教論を超えて、『教会の宣教活動に関する教令』では、教会の「多様性における一致」が強調されるようになりました。1974年の世界代表司教会議の直後、 アフリカでは、キリスト教の信仰の一致と多様性、アイデンティティの問題が強調されました。コンゴ(民主共和国)のマルラ枢機卿は、アフリカ人を中心にしたアフリカによるキリスト教の神学、哲学、典礼、教会論の研究を行う研究機関を設け、外国人宣教師がアフリカにキリスト教を伝えた時代を経て、今はアフリカ人がキリスト教をアフリカ化することが大事だ、と一生をかけて訴え続けました 。
 小教区は何よりも信仰共同体における実践的な交わりです。第2バチカン公会議以後、小教区については、トリエント公会議が強調した領域性よりも、キリスト信者の共同体の集まりが強調されています。キリスト者は洗礼によってキリストに合体されたことにより神の民とされます。そこにおいて宣教の担い手の一番の中心は司祭ではなく信徒です。世俗化された現実社会で働き、社会の空気を適切に読み取ることができるのは信徒だからです。「信徒は祈って、払って、従うものであってはいけない」のです。そこで、福音宣教の発信者である小教区のあり方を改善し、司祭と信徒の距離を縮める必要があります。そのようにして、イエスにつながる神の民のそれぞれの信仰を大切にし、育てていくことが福音宣教につながっていくことになります。
 そのためには聖書の勉強、黙想、瞑想が必要とされます。どんなに立派な信者の集まりであっても、みことばがない集まりはキリスト教的集まりとはいえません。現代日本人がキリスト教との出会いを求めるとき、キリスト教の中心になっている福音を大切に出会いの場と考えなければなりません。人が求めているのは、真の自由、真の愛、死を超える神などだからです。イエス・キリストが語った神の国の福音は、人に自由を与え、現代消費社会、商業主義、ITなどの情報にとらわれている現代人に解放のメッセージを伝え、死を超えた復活という将来への希望を示すものです。「無縁社会」と呼ばれる現代の状況の中で小教区は、人びとの恵みの場、いやしの場、やすらぎの場、すなわちオアシスとしての神的な交わりの場となるように一人ひとりが努力しなければならないのです。  

現代社会の変容の中の宗教の課題と宣教
アガスティン・サリ師

 2010年のある調査で、キリスト教、イスラム教に続いて、「無宗教」の人口が3番目に多いという統計が出ています。この無宗教の背景にはどういう変化があるのか。 それには3つくらいのポイントがあると思います。
 1つは、1948年から世界が認めている世界人権宣言の後の時代だということです。
 ほとんどの世界で「すべての人間は、生まれながらにして自由で、尊厳と権利について平等である」、つまり自由と権利を主張する時代になっています。 第2バチカン公会議が行われた時代というのは、そのように自由と権利を主張する社会になってきたところでした。このことに対してどういう立場を取ればいいか、何も言わないではいられないことになったのです。 自由と権利を認めたうえで、宗教をもつことの権利も個人の自由として認めるようになった時代なのです。
 次に政教分離です。第2次世界大戦後、民主主義的な社会制度、政治体制が1950年代から増えています。当たり前の政治体制になっているのです。 それは、我々皆に責任のある政治体制ということになります。 その結果として、政教分離という考え方が根付いています。 第2バチカン公会議も、教会は誰も強制的に信者にしてはいけない、ということをはっきり言っています。 民族的な宗教も含めて、他の宗教を尊敬しながら、誰も強制的に宗教へと招いてはいけない、というはっきりした立場を取っているのです。
 それから、宗教が私事化し、プライベートなものになっているという現実があります。個人が自由に宗教の体験を持った人として宗教をやればいい、という意識です。
 ウィリアム・ジェイムズという心理学者は、本当に個人的な回心のある神体験、宗教体験が大事だと言います。たしかにそれは正しいのですが、神体験は個人だけでは得られるものではないということがひとつの問題です。そこでは、共同体の役割が非常に大きいのです。
 人間は誰でも人生のどこかの段階でいくつかの根本的問いに直面します。「死んだらどうなるのか」「なぜ私は生きているのか」「なぜ自分だけがこういう苦しみを受けなければいけないのか」「なぜ私はこういう経験をしなければいけないのか」「なぜ私は生きてきたのか」「なぜこの二人が出会ったのか」。そのようなわからないことに対して個人で出せない答えを共同体が出している。共同体としてカトリック教会もちゃんとした答えを出しています。そうすると、個人の宗教体験は、共同体によって助けられるものとなります。一人ひとりの人生において、例えば個人的な祈りの助けになったり、あるいはミサや典礼をとおして毎日の生活の中で人生の一部になるような助けになったりもしています。 その意味で、共同体はなくてはならないものです。
 根本的な問いに対する答えを自分の後輩や子どもたちに伝えていくことも共同体の責任のひとつです。それこそ「信仰の遺産」を受け継ぐ形です。「信仰の遺産」とは、自分が確信を持って信頼している神への信仰をわが子に伝えることです。自分の親が確信をもって自分に与えてくれるものが信頼しやすいものです。今の日本では、そういう遺産を伝えていない現実がありますが、それを伝えることが子どもにとって助けとなるということに確信をもっていいと思います。
 私たちは「世俗の時代」に生きていると言われています。それには3つの要素があります。ひとつは政教分離、第2に、個人的な生活における宗教的要素の減衰、第3は、「信仰の条件」としての世俗性、つまり、人が自分の宗教を選べる社会だということです。自分のスピリチュアルな欲求のためにどの宗教に行ってもいい。あるいは何も選ばなくてもいいという状況です。日本では、町の教会なら、だいたい10%、ある教会では20%、信者でない人が来ています。それがありうるのは、この「信仰の条件」の変容によるものです。教会がその人々に祝福を与えるのは、宣教の方法としての新しい側面だと思います。私たちは、そのような社会の中で教会共同体、信仰共同体として、そのように求められていることに対して応えていくことを考えなければならないと思います。