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2014年 四旬節黙想講話(要旨)

ゆるし
中嶋義晃師(さいたま教区司祭)

 私たちは、体や言葉の上で暴力といっていいくらいの攻撃的な行為を受けることがたまにあります。子どもの頃に時々そのような目に遭い、やられたらやり返すようにしたこともあるでしょう。攻撃をされたら守るというのが普通だと思います。
 そんななか、仏陀は、「手や棒で打たれ、あるいは刃物で傷つけられても、お前は心を平静に保ち、悪い考えを起こさず、憐れみと愛で応じ、決して怒ってはならない」と。イエスが説いた教えとよく似ていると思います。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5・38-40)。イエスはさらに、人間として最も厳しい、難しい「敵への愛」を説き、そして自ら言葉と行いを一致させて、自分を苦しめ、侮辱する人たちを十字架上でゆるしていきました。
 しかし、「ゆるすこと」が自分自身で納得できない場合も実際にはあります。哲学者のジャンケレヴィッチは、強制収容所が存在したことを顧みて、ゆるしを「超人間的不可能事」と呼んでいます。
 それでもゆるしは、葛藤から抜け出すために自分自身の心をいやす唯一の態度となることがあります。それは、喜びと心の平和をもたらして、暴力を根絶するための必要な条件となってきます。ゆるすとは忘れることではありません。ある状況や環境で他者につけられた傷をいやし、その傷のきっかけとなった状況が二度と繰り返されないように手を尽くしていくことです。
 それは常に、人としての深い選択であり、心・精神の行いです。人としての限界を超えることであるところから、あらゆる宗教で精神性の到達点とされています。平和のために尽力した人たちが悲劇的な終末を迎えることも多いですが、彼らがたてたあかしは私たちの良心に強く訴えかけます。崇高な善や、思いやりと友愛の希求の方向へと私たちの良心を向かわせます。
 十字架にかけられて、不当な屈辱と拷問を受けて、死に瀕しているときに、イエスは神にこう語りかけました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)。攻撃をしてくる人自身が苦しみを抱えていることも多くあります。それがわかれば、ゆるす気になっていくかもしれません。
 私たち自身も皆、どんな悪いことをもしてしまう可能性を持っています。もろく傷ついた満たされない人間だからです。ですが、ひとたび自分自身の心に歪みがあることを自覚していれば、他人に対しても理解しようとする姿勢になるのではないでしょうか。相手の気持ちを理解することが共感に変わり、自分の心を不幸にしているネガティブな感情が消えていきます。
 自分の心が今どんなことでいっぱいなのか、そのことに気づいて取り除いていく作業をしていけば、おのずと自分自身を取り戻すことができるかもしれません。よくあるケースを挙げてみると、(1)自分の中に大きな不安があるとき、(2)自分の欲求を抑圧しているとき(無気力になるか不満をためるか)、(3)自分が不完全であると思うとき、(4)自分に自信がなく、周囲の顔色を窺ってしまうとき、(5)罪悪感や自己嫌悪が大きくなるとき、(6)「自分は良い人ではない」という潜在的な思いを隠そうとして、自分の正しさにこだわり、他の誰かを非難するとき、(7)頑張りすぎているときなど。これらは知らず知らずのうちに無意識の中で起こるものなので、それに気づいていくことが大事になります。
 イエス様の教えは、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大事なのだというところにあるのではないでしょうか。私たちは神さまにゆるされているからこそゆるし合うことができるのです。ですから、人が人をゆるすというのは、まさにしなければならないことをしただけということになります。
 それが可能となる場合とは、たとえば(1)自分に対して罪を犯した人間がその罪の痛みを本当に感じているとわかったとき、あるいは心からの謝罪をしているとわかったとき、(2)相手の弱さを感じ、その人が過去にどんな傷を受け、その中でどのように人格が歪み、その行動に走ったのかが理解できると思えたとき、(3)ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと思うとき、(4)罪人である自分自身が本当に神さまにゆるされていると実感したときなどです。
 「ゆるせない」と嘆くばかりではなく、「ゆるせた」とか「ゆるしてもらった」という体験を分かち合うほうが、はるかに私たちにとって役に立つにちがいありません。自分をゆるしてくださっている神さまの愛を感じ、そして思い、自分自身と自分を傷つけた人をゆるせるように、祈りましょう。

〔2014年3月16日 関町教会聖堂にて・『こみち』260号より〕