Home > クローズアップ > 講演・講話

2013年 待降節黙想講話(要旨)

「子どもの心で主の到来を待ち望む」
〜〜 幼きイエズスの聖テレジアの「小道」に学ぶ 〜〜
ホアン・カトレット師(イエズス会)

 子どもの心で非常に目立つことは、いつも希望、喜びをもって生きていることです。子どもたちの目は、待ち望んでいるような清さを表していると思います。待降節の徳、特に希望は、「信仰と愛徳の妹」と言われます。待降節の間、能動的な希望をもって準備をしましょう。それは、毎日朝から晩まで自分がなすべきことをし、祈りながら、お年寄りや子どもたちなど人への思いやりをもって生きることです。

 幼きイエスの聖テレジアは、それを「小道」として教えてくださいます。
 聖テレジアの写真に、『幼いイエス』と『尊い面影』の額を手にしているものがあります。尊い面影は、鞭打ち後の茨の冠のイエス様の姿、テレジアはそのイエス様の顔を見ながら自分の苦しみを捧げました。それで幼きイエスのテレジアと言われることになりました。彼女はその2つ、「幼きイエス」と「尊い面影」のテレジアの名前で誓願を立てました。聖テレジアの「小道」とは「信頼、神の御手と御摂理に委ね、霊的な幼年期を味わう」ものです。

 哲学者のヘーゲルは、誰の人生にも3つの段階があると言い、それを「正」「反」「合」と呼ぶ論理で示します。テレジアの生涯をそれで考えてみましょう。「正」はテレジアという可愛い女の子が生まれたことです。そして15歳のときに「反」、回心が始まりました。そのあと「合」、すなわち「正」「反」の実りとして、彼女は霊的に新たに生まれました。まさにそのとき、幼きイエスのテレジアとなったのです。
 イエス様自身の生涯を見ると同じことが言えます。イエス様の「正」は生まれたこと、マリア様、ヨセフ様に可愛がられたことです。そのあとに「反」。公生活において、いろいろな反対、論争、ファリサイ人からの攻撃を受けましたが、いちばん大きな「反」は、十字架の道行、鞭打ち、茨の冠、カルワリオの丘で十字架につけられ殺されるまでに至ったことです。でもそのあと「合」としてご復活のキリストが勝利を得たのです。
 幼きイエスの聖テレジア、尊い面影の聖テレジアは、イエス様と同じ道を歩んでいます。私たちも皆、成長する過程でそのような道を歩んでいるのではないでしょうか。

 イエス様は、子どものようにならないと天の国に入れないと言っています(マタイ18・3)。天国に入ることは、恵み、神さまの愛、慈しみ、ゆるし、恩恵です。だから、私たちはそれを受け入れることしかできないのです。その意味で支えられるのです。
 子どもの心の一番よいところは「支えられる」ということです。
 日常生活の聖性、子どものように信頼する心で、イエス様と天の父に支えられながら、すべてを父なる神と救い主イエス様に捧げ、愛のうちに愛によって生きる。これは聖テレジアの魂の物語の中心にあることだと思います。
 「愛は寛容なもの。慈悲深いものは愛。愛は妬まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜ばないとともに真理を喜ぶ。すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。愛は決して滅び去ることはない」(1コリント13章4-8節 フランシスコ会訳 2011年版)
 すべてを望む、希望をもって生きる。彼女はなるほど、愛によって今の日常生活のすべてを捧げながら、すべての使命を果たしていました。そのために、彼女は聖フランシスコ・ザビエルと一緒に福音宣教の保護者となり、また教会博士にもなったのです。

 クリスマスツリーは何の木でしょうか。十字架の木、命の木です。生まれたイエス様は十字架の木にのぼって、「私が地上から引き上げられるとき、すべての人を私のもとへ引き寄せる」(ヨハネ12・32)のです。命の木である十字架によって、私たちを贖い、ゆるし、天国の門を開いて、幼きイエスと尊い面影のイエスがひとつの神秘になるのです。聖テレジアはそれを悟ったのではないでしょうか。
 最後に幼きイエスの聖テレジアがマリア様について捧げた言葉を紹介します。
 1897年9月8日にしたためられた最後の言葉のひとつです。

おお マリアさま もし私が女王で
あなたが テレーズだとしましたら
あなたが 女王でいらしてくださるように
私は テレーズでありとうございます

〔2013年12月1日・関町教会聖堂にて〕